九州産業大学地域共創学部地域づくり学科の緒方泉教授による、博物館、美術館などのリラックス効果に関する研究について、実際に緒方教授へインタビューを実施。
福岡市美術館で行われた今回の実証実験は、中・高校生21人を対象に、美術鑑賞前後の血圧、脈拍、心理状態の変化を測定しました。その結果、美術館での時間が血圧と脈拍を緩やかに下げ、心理的な緊張や不安を減少させ、活気と活力を高めることが示されました。
そこで今回、美術館が地域社会において果たす新たな役割や芸術鑑賞の際のポイントについてなどをお伺いしてきた。
緒方 泉さん
九州産業大学地域共創学部地域づくり学科 教授
本記事のリリース情報
地域共創学部緒方教授「博物館浴」に関する研究が進んでいます
芸術鑑賞にはリラックス効果がある?「博物館浴」とは?
── はじめに、今回の研究に取り組むようになったきっかけについて教えてください。
緒方教授:現代の日本社会を考える上で、高齢者人口の増加と少子高齢化は重要な問題です。特に、人生100年時代を迎え、高齢者の健康寿命の延伸が課題となっています。高齢者の中には元気な方もいれば、寝たきりの方、フレイル(虚弱)な方もいます。これらの高齢者が健康的に人生を送るためには、社会資源の活用、中でも私はミュージアムに所属しているので、ミュージアムが高齢者の豊かな人生を支援する場としての役割を果たせると考えたのがきっかけです。日本には5700ものミュージアムがありますが、多くの人々は博物館を学ぶ場としてのみ捉えています。しかし、ミュージアムはそれ以上の価値を提供できると信じています。
日本の年間平均ミュージアム訪問回数はたったの1.2回
── 日本のミュージアムの現状について教えてください。
緒方教授:残念なことに、日本の国民は年間平均1.2回しかミュージアムを訪れていません。これは、ミュージアムが新たな価値を創造しなければ、存続が危ういという現状を示しています。2025年問題で団塊世代が75歳以上になり、2042年問題で65歳以上の高齢者人口がピークを迎える。これらの問題を考えると、ミュージアムというのはどんな役割を果たしていけばいいのかというのが、まず研究をするにあたっての出発点になっていますね。
── 海外のミュージアムとの比較についてはどう思われますか?
緒方教授:海外、特にイギリスでは、ミュージアムが人々の生活を変える場としての役割を果たしています。イギリスの博物館協会のホームページには、ミュージアムがどのように社会に貢献しているかが詳しく記載されています。これは日本のミュージアムも目指すべき方向であると考えています。
また、イギリスでは、ミュージアムが健康とウェルビーイングに役立つプログラムを提供しており、これがコロナ禍でさらに重要視されました。イギリスの調査によると、63%の人が博物館でストレス解消を経験していますが、定期的に訪れる人はわずか6%です。1753年開館の大英博物館があるイギリスでさえ、博物館がストレス解消の場としてまだ十分に認識されていないことを示しています。
美術鑑賞にはリラックス効果、血圧や脈拍の低下、心理的な緊張不安の軽減などの効果がある
── 教授の研究では、ミュージアムがどのように健康増進に寄与するかについても言及されていますね。
緒方教授:はい。私の研究では、美術鑑賞がリラックス効果をもたらし、血圧や脈拍の低下、心理面での緊張不安の軽減などが確認されています。これらの効果も踏まえて私たちは「博物館浴」と呼び、健康増進や疾病予防につながる可能性について検証しています。
芸術鑑賞が持つ癒し効果を健康増進や疾病予防に活用「博物館浴」
── 博物館浴についてもう少し詳しく教えてください。
緒方教授:博物館浴は、森林浴や海水浴と同様に、人々の健康と福祉に貢献する概念です。これは、博物館が持つ癒し効果を健康増進や疾病予防に活用する活動として定義しています。この概念を医療専門家と共有し、博物館がどのように人々の健康に貢献できるかを探求することが重要です。
各国の研究から見る芸術鑑賞がもたらす効果
── 海外の研究で芸術鑑賞の効果に関する具体的な結果はありますか?
緒方教授:カナダでは、2018年から博物館を処方箋として記載するプログラムが始まりました。これは10年間の実証実験を経て実施されています。博物館に行くことでリラックス効果があるかどうかを生理測定で確認し、ストレスホルモンであるコルチゾールの分析を行っています。その結果、訪問前後でコルチゾール値が変化することが確認されました。モントリオールの国立美術館では、年間50回の無料券を提供しています。
またイギリスでは、2019年に発表された論文で、芸術が人に与える影響についての研究があります。これは、50歳以上の6000人の地域住民を対象に、2002年から14年間追跡調査を行ったものです。劇場、コンサート、オペラ会場、美術館、画廊、展示会などの芸術文化の場に頻繁に訪れる人々は、訪れない人々に比べて死亡率が有意に低いことが分かりました。これは、文化芸術が人々の健康やメンタルヘルスを支える重要な役割を果たしていることを示唆しています。
── おもしろい研究ですね。実際に博物館を訪れることでリラックス効果があったのですね。その他にもありますか?
緒方教授:はい。2006年にイギリスで行われた研究があります。ウエストミンスター大学の研究者がロンドンの労働者を対象に、昼休みにアートギャラリーを訪れる実験を行ったところ、ミュージアムを訪れた後ストレスが減少することが確認されました。これは、企業の健康経営にも重要な示唆を与えています。イギリスでは、高齢者だけでなく、働く人々の健康にもミュージアムが役立つという認識が広がっています。
博物館や美術館の訪問は短時間でもリラックス効果がある
──続けて、先生が取り組んだ今回の研究「美術館のリラックス効果の科学的検証」について教えてください。
緒方教授:私たちは海外の研究方法に基づいて、美術鑑賞の前後で血圧や脈拍の生理測定と心理検査を行い、体と心がどのように変化するかを調べました。2020年9月から始めたこの研究では、すでに全国60館以上でデータを収集し、その数は800名を超えています。
── 実験の結果について教えていただけますか?
緒方教授:血圧と脈拍は緩やかに下がったほか、心理面では緊張不安が下がり、活気活力の数値が上がる傾向が見られました。このことから、博物館や美術館の訪問は、たとえ短時間でもリラックス効果があることが明らかになりました。10分、20分、30分の訪問でも、リラックス効果に影響があります。そのため、博物館や美術館を訪れる際には、特定の展示室だけを見ても良いという使い方を提案しています。また、歴史、民俗、自然史系の博物館でも実験を行ったところ、どのタイプの施設でもリラックス効果が得られることが分かりました。
生理測定の結果からは、高血圧の人は血圧が下がり、低血圧の人は血圧が上がる傾向にあることが分かりました。これは、博物館訪問が人間の恒常性を保つ効果があることを示唆しています。
博物館とは健康やメンタルヘルスを支える場所という認識
博物館浴の効果が広がり、ウェルビーイングの向上に繋がる
── 最近の研究で注目しているものはありますか?
緒方教授:最近の研究で注目しているのは、博物館や美術館の体験が単に視覚に頼るものではないということです。例えば、モノに触れる体験や、歴史的な町並みを歩く体験など、異なる感覚を刺激することで、博物館浴の効果を広げることができます。特に古い町並みを歩くことは、フィールドミュージアムの一環として、歴史的な環境を体験することができます。これは、軽い運動としての効果も見られます。
そして博物館浴を通じて、高齢者が社会的なつながりを持ち、健康を取り戻すきっかけになることがあります。若者と高齢者が一緒になって語り合うことで、世代間の交流が生まれ、ウェルビーイングの向上につながる可能性があります。これらの発見は、博物館浴の可能性を広げ、より多くの人々にとって有益な体験を提供するための重要な手がかりとなるでしょう。
博物館は学び、関わり合い、つながる場所。自分が感じたことを素直に受け止める。
── 博物館での鑑賞において、なにか注意すべき点はありますか?
緒方教授:博物館や美術館を訪れた際には、まず作品の説明文ではなく、作品自体を見ることをおすすめします。色使いや筆使い、形など、作品の観察を通じて、作り手との対話を試みてください。これは、作品とのつながりを深める方法の一つです。また、博物館は学ぶ場所だけでなく、関わり合い、つながる場所としても捉えていただきたいです。そうすることで、訪れる方々にとってもっと楽しい体験になると思います。
── 博物館や美術館での作品鑑賞における「作り手との対話」について具体的に教えていただけますか?
緒方教授:実際に作家と話すことは難しいですが、作品を見て、そこから何かを問いかけることは大切です。自分自身で問いかけることにより、鑑賞の楽しみが増えると思いますし、目の前の作品に対して、自分が感じたことを素直に受け止めることが重要です。解説文が正解であり、それに自分を合わせなければならないという考えを持っている方もいるかもしれませんが、それによって作品との距離感が生まれ、美術館や博物館への関心が薄れてしまうこともあります。
日本では、どうしても学校で〇か×かの考え方が中心となるため、博物館や美術館でも同じ見方をしてしまいます。自分がわからないことを否定的に捉える傾向があり、それが博物館や美術館との距離感を生んでしまっています。
── 緒方教授、これまでの研究を通じて、読者に伝えたいメッセージはありますか?
緒方教授:まず皆さんに知ってほしいのは、日本全国には5700もの博物館があるということです。これまで博物館とのつながり、関わりが薄かった方々にも、博物館が健康やメンタルヘルスを支える場所として再認識していただきたいですね。私たちは、エビデンスに基づいて安心して訪れることができるような環境を提供したいと考えています。
── 今後の研究について教えていただけますか?
緒方教授:今後は参加者数を増やし、1000人という目標を達成したいと考えています。また、作品の種類や内容による心理的、生理的な影響の違いをより詳細に分類し、どのような展示がどのような効果をもたらすかを詳細に分析する予定です。
博物館や美術館の訪問が、医療処方のようにより個人に合った形でのリラクゼーションや健康増進の手段となることを目指しています。カナダのように、「処方箋に博物館と書く」という日が来ることを願っています。
編集後記:
今回のインタビューを通じて、博物館や美術館という文化が私たち一人ひとりにどのような影響を与え、どのように関わっていくべきかについて、改めて考え直すきっかけになりました。博物館や美術館が単なる展示空間ではなく、私たちの健康やメンタルヘルスを支える場所としての可能性も感じられます。また、作品に対して自分自身の感覚で問いかけ、自由な解釈を楽しむことが、鑑賞の醍醐味であることを教えていただきました。より自由で主体的な鑑賞を促進することで、これらの施設との新たな関係性を築く鍵となると感じています。