正解を、誰にも握らせないということ
宮田裕章さんと初めて出逢ったのは、経団連のDXタスクフォースの委員でお仕事させていただいたときだった。講演に来てくださった宮田さんの話を聞きながら、僕は正直感動でワクワクしていた。データやテクノロジーの話をしているはずなのに、その先にいつも「人」がいる。一人ひとりの違った「」が、どうすれば消されずに輝けるのか。語っていたのは、技術ではなくて、社会のかたちそのものだった。
聞き終えて、いてもたってもいられなくなった僕は、早速名刺交換を後日、会いたいとお伝えして、宮田さんの大学の研究室を訪ねた。そして、3時間くらい想いを語り、半ばラブコールのように「いっしょに未来を変えたいんです」と伝えた。あの日のことは、いまでもよく覚えている。宮田さんと出逢ったことで、僕は「ウェルビーイング共創社会」を、理想ではなく本当に実装できるかもしれない、という可能性を初めて手にした気がした。
そこから博報堂の事業共創として「生きるをつなげる。生きるが輝く。」というビジョンを掲げて Better Co-Being(BCB)プロジェクトを発足させた。それが、宮田さんの大阪・関西万博のパビリオンへとつながっていったのは嬉しかった。そんな宮田さんが、先日、倫理学の二十の難問を BCB という視座から読み直す、というnoteを書いた。今日はそれを、僕なりの言葉で受け取り直してみたいと思う。
「いちばんいい生き方」を決めない、という強さ
宮田さんは冒頭で、BCB は「特定のよい生を最終解として掲げない」と書いている。完全な善や最適な答えを示すものではなく、いまより少しだけ残酷でなく、少しだけ閉じておらず、少しだけ応答と修正ができる方向を指す。「Better は最上級ではない」と。
ここを読んで、僕がずっと、ウェルビーイングを「定義しない」と言い続けてきたことにも繋がると思った。何が幸せかは、主語をどこに置くかで変わる。だから誰かが「これが正解の生き方です」と強要してきた瞬間に、こぼれ落ちる人が必ず出る。僕はそこに違和感を感じていたのだと思う。
宮田さんの言葉で腑に落ちたのは、「正解を持たないこと」は逃げではなくて、むしろ覚悟なのだ、ということだった。答えを一人に握らせない。間違えたら止められる。傷つけたら戻ってやり直せる。その仕組みごと差し出すほうが、きれいな正解を掲げるよりずっと難しい。あの研究室で僕がやりたいと言ったのは、たぶんこっちなんだと、あらためて思った。
「ともにある」とは、仲よくすることではないのか?
ここは僕の中でモヤモヤした。宮田さんは、BCB の言う「ともにあること」は調和でも包摂でも全員一致でもない、とはっきり書く。距離を取ること、語らないこと、拒むこと、関係を組み替えること――それも、その人の未来を守る正当なやり方でありうる、と。
僕は「つながりの中のウェルビーイング」という言葉をずっと使ってきた。Wellulu という名前自体、We と U(あなた)が「/」でつながる、という願いから来ている。だからこそ、正直に言うと、どこかで「みんな仲よく、わかり合えたらいい」という理想論とふわっとしたイメージに寄りかかっていた気がする。
でも宮田さんは、わかり合えなくてもいい、と言っているように読めた。大事なのは、相手の存在と異議を消さないこと。沈黙する自由も、その場を去る自由も残しておくこと。「誰も取り残さない、共鳴する社会へ」を、僕は長いあいだ「多様を認め合い、みんなと共につながり、お互いをリスペクトする(みんな仲良くしようぜ)」ことだと考えていた節がある。でも本当は、ばらばらのままでいられることこそが、取り残さないということなのかもしれない。つながりとは、握りしめることではなくて、手をひらいておくことなのだと思う。
数えていいのは「結果」で、人の値段ではない
宮田さんの考えの真ん中あたりに、僕がいちばん考え込んだ一文がある。「集計してよいのはアウトカムであって、人間ではない」。
医療でも災害でも、限りある資源をどう配るかは、どうしても数えなければ決められない。救える可能性、痛み、時間。それは数えていい。でも、その人の価値、尊厳、存在の理由まで足し算の対象にしてはいけない。救えなかったことは、その命が軽かったという意味ではないということだ。
僕らは 博報堂の過去のリサーチから、ウェルビーイングな人(幸せを感じてる人)の因子分解をして、「主観的ウェルビーイング21因子」をつくり、データで一人ひとりの状態を見ようとしてきた。
データは、一番多い人を見るためだけでなく、平均からこぼれる人を見つけるための、強い味方になりうる。でも一歩まちがえれば、その数値が人を選別する物差しに変わってしまう。便利だから、つい寄りかかる。数えやすいものばかり数えていると、数えられないものが「無かったこと」にされていく。
宮田さんが「測っても測れないものを忘れない」と書いていたのは、たぶんそういうことだ。僕は、自分たちの指標を、何を数えて、何を絶対に数えないでおくのか、もう一度問い直したいと思った。
よかれと思った介入にも、止めるレバーを
宮田さんは、本人の選択をどこまで尊重し、いつ守るために手を出すか、という難問にも触れている。
印象的だったのは、たとえ守るための介入であっても、それ自体に「必要だったか」「やりすぎていないか」「期限はあるか」「あとから止められるか」を問う仕組みを備えなければいけない、という指摘だった。守るという名前の支配を防ぐために。
これは、メディアをつくる仕事でも、3人の子の親としての日々でも、まったく同じだと感じた。よかれと思って先回りすることが、相手の「自分でやれた」を奪っていないか。僕は答えを配る側ではなくて、いっしょに考える隣の人でいたい。だとしたら、自分の親切にも「止めるレバー」を付けておくくらいで、ちょうどいいのかもしれない。
息子が通う中学の安居校長先生が「待ってあげてください」とおっしゃっていた。サッカー日本代表の森保監督も、8年間選手が自発的に考えてプレイすることが強い日本をつくると信じて、「選手の動き出し」を見守っている感じがする。これらは全部同じことを言っているのだろう。けれども、どこかで、ついつい言ってしまっている自分がいるのも事実である。
気づいたら、土台を耕している
BCBが絶対的なこれしかないという考え方になっていないのも面白い。自分の正しさだけを主張してしまいがちだが、そこをまず疑うところからはじめないと、それは別の支配になってしまう。だから BCB を掲げる宮田さん自身も、当事者や外の人に止められ、修正され、必要ならBCBそのものも変わっていかないといけない、とおっしゃっている。
「自己批判を語ること」自体が、批判を先回りで吸収するアリバイになりうる、という一節は、胸に刺さった。語るだけでは足りない。実際に設計が変わったか。拒絶が拒絶のまま残ったか。そこまでいって初めて意味がある、と。
プロジェクトを立ち上げたときは、ここまで言語化できていなかった。それが言語化されて、また自分も考えるきっかけになる。
宮田さんは結びで、BCB にとって「よく生きる」とは、完成した善に到達することではない、と書いている。違ったまま、互いの未来を完全には閉じず、対等性・安全性・応答性・複線性という土台をともに守り、誤れば止め、傷つければ修復し、決めても非同意を残し、自分自身をも止められるようにしておくこと――。
これはきっと、一回決めて終わる話ではない。毎日、少しずつ、関係を耕し直していく営みなのだと思う。Wellulu でいつも言っている「気づいたら、ウェルビーイング」も、同じところを向いている気がする。気合いで正しくあろうとするのではなく、気づいたら、いつのまにか土台を耕していた。そういう続け方が、いちばん遠くまで行ける気がする。
オープンマインド、giveの精神、透明性、リスペクト。僕がウェルビーイングな関係性をつくる上で大事にしてきたことは、宮田さんの言う四つの土台と、たぶんどこかでつながっている。常に正直であること、誰かのために何かをやれること。隠さず開いておくこと。相手を見下したりしないこと。それは結局、「正解を一人に握らせない」ための、日々の小さな作法なのだと思う。
あの研究室でラブコールを送った日から、僕はECOTONEを宮田さんと一緒につくりあげ、挑戦の最中にいる。ウェルビーイングな人を増やすために、共創のひとつの通過点にいる。完成した答えを掲げるのではなく、問い直せる土台を、これからもいっしょに耕していこう。
宮田さんから、勝手インスピレーションを受けて、書き止めたく筆をとった。これからも一緒に歩みたい。

堂上 研 株式会社ECOTONE代表取締役社長 Wellulu編集長
株式会社ECOTONE代表取締役社長
ウェルビーイングメディアWellulu編集長
情報経営イノベーション専門職(iU)大学教授
日本イノベーション協会 理事
私生活では、3人の子供の父。趣味は、スポーツとアート。