AI時代の「生きる」を考える。
昨日、宮田裕章さん、篠田真貴子さん、宇野常寛さんの鼎談「知的生産の近未来——AIはホワイトカラーを『終わらせる』のか」(楽天大学)を渋谷のヒカリエで公開対談があって行ってきた。知的生産とホワイトカラーと言われている仕事のお話しでめちゃくちゃ面白かったので、僕なりの思考を整理したいと思う。3人の個性と個性のぶつかり合いと、融合と共鳴があって、この3人だからこその面白みがあった。
職業的な自分の立ち位置を見直すことと、人間的視点とAIとの共生の視点で語られて、働き方を超えた「生き方」の問いだったように思う。リベラルアーツの観点で語られていた。哲学であり、経済行動学であり、教育学でもあり、という多様な考えが交錯していく心地よいカオスがワクワクを超えて、可能性を語ってくれていた。
未来、僕たちは、どう生きるか?
そんな問いをいただいたように思う。2時間の対話を反芻しながら、僕は3つのことを感じた。ひとつめは、「人は人の間に温もりを求める」ということ。ふたつめは、「自分の中にいる多様な自分が、いろいろなコミュニティにゆるくつながっていく」ということ。そしてみっつめは、「自分とは何かをはっきりさせる必要が、なくなっていく」ということだ。今日は、そのことを、「この日はこんなこと思ったんだな」という感じで綴ってみたい。
AIがあたりまえにそばにいる時代。僕らは、どう生きていくのだろう。AIの進化と共にいることが前提の社会で、働き方が変わるように、未来がどう変わっていくのか、不安になっている人もいるだろう。AIがあれば仕事がなくなっていくという一般的な話ではなく、働き方を超えた「生き方」が変わって行くだろう、と思ったのである。
結局、人は人の間に温もりを求めるだろう。
AIは、共感の言葉をいくらでも返してくれる。疲れたと言えばねぎらい、迷っていると言えば選択肢を並べてくれる。それはそれで、ありがたい。AIがあれば、人はいらない、なんて言う人もいるだろう。ただ、曖昧な回答もそれらしく答えてくれて、何かそれが全て正解のような錯覚に陥ってしまう。
そんな環境で、人間は満たされるのか?僕は、そうではない気がしている。まだ僕はAIを信じられていないからかもしれない。結局、最後は「人と人の関係性」に戻ると感じている。お話しの中で、「有限性」のお話しがあった。そう、僕ら人間は、「有限だからこそ大切にしないといけない」ものの価値が分かっているのである。それは、時間であり、命である。
人は人だからこそ、同じように終わりのある命を生きる誰かが、自分を見ていてくれる。AIはどんなに感情を教えても、この人と人の間にある「何か」は感じられない。美味しいものを一緒に食べて、たわいのない話をする。ちょっと考え方や価値観が違って、お互いがお互い衝突することもある。自分と対話すると同時に、他者や自然と対話することで、自分の感性がひらいていく。これは人間だからこそ、人が人に委ね委ねられているからこそ生まれるのだと思う。
人に話を聞いてもらうことで、僕らは安心と発見と可能性を見つける。ここで人でしかできないものが、普通かもしれないが「温もり」と呼びたい。
いま、僕らが過ごす時間の多くは画面の中にある。便利さの裏側で、オンライン会議もAIへの相談も、このWelluluの編集長ブログも、デジタルとの付き合いで、画面と常に向き合っているのである。たまに、zoom会議12時間連チャンとかあると、心が疲れきってしまう。そのまま一日を終えると、心の温もりを感じるために人に会いにいきたくなる。家族の時間が恋しくなる。
だからこそ、人が人にリアルで会い、誰かの変化に気づき、名前を呼び、そこに居続けることが大切な気がしている。それは、AIには手渡せない、最後の人間の感情であり、そうであってほしいという僕の願望かもしれない。
「人間」という言葉は、人の「間」と書く。僕らは一人で完結する生きものではなく、誰かとの間で、はじめて人になっていくということを考えると、人と人の間にAIが入る余白はあるのだろうか?AIが効率、手続きや調整を引き受けてくれるほど、人は人の間に還っていく気がする。人は、温もりを求めて、人に会う。これからの時代、それはぜいたくではなく、生きることの真ん中になっていくのだと思う。
多様な自分が、ゆるくつながっていく。
これまでの社会は、一つの会社、一つの肩書き、一つの物差しに自分を預けることで成り立ってきた。成果を数字で測り、効率で比べる。KPIという言葉に振り回されて、見えるべきものが見えなくなり、無意識のうちに、見ないことが当たり前になっていった。その仕組みが、たくさんのものを生み出してきたのも事実だ。産業革命以降、こういった環境が、市場をつくっていった。
けれど、一つの物差しだけで生きることは、少しずつ苦しくなっているのだろう。価値観の多様化と共に、コロナ禍以降「世の中の正しい」が、本当に正しいのか、と疑いながら生きている気がする。ECOTONEの経営をはじめて、短期的な数字を追うほど視野は狭くなり、中長期的な行動は制限される。そして、同僚や隣にいる人の表情を観察できず、内省もできずに、見えないものとして扱ってしまう。これは、自分と他者を無視しているのだ。
自分を俯瞰で見ているとき、社会のあらゆる事柄、政治、経済、地政、宗教、コンテンツ、スポーツなどをつながりを持って見てみると、何か違った可能性に気づくものである。つまり、僕らは、自分の殻に閉じこもって、自分の見ているものだけで物事を判断するのではなく、もっと外の世界に好奇心を持って、繋がっていくだけで、自分の成長と可能性に気づくのだろう。
僕の中にも、いろいろな僕がいる。父としての僕、経営者としての僕、編集長としての僕、アートやスポーツに心を動かされる僕。どれも本当の僕で、どれか一つだけが本物というわけではない。その多様な自分が、それぞれの場所に、それぞれの温度でゆるくつながっていく。
強くて一つのつながりより、ゆるくてたくさんのつながりの方が、しなやかなのだと思う。一つの場所がうまくいかない日も、別の場所の自分が、ちゃんと呼吸をしていられる。つまり、多様である自分が「型」にはまらなくて良いのだ、会社の型、社会の型、家族の型、経営の型、いろいろな型を知って、自分がどう生きたいかで、ゆるいコミュニティに行ったり出たりすることができれば良いのである。
Welluluという名前も、WeとUが「/」でゆるくつながる姿から生まれた。僕らがつくりたいのは、誰かを囲い込む場所ではなく、出入り自由な、風通しのいい居場所なのだと思う。新しい価値は、たいてい計画の外からやってくる。目的のない散歩や、ふとした雑談、思いがけない出会い。ゆるい接点がたくさんあるほど、偶然は訪れやすくなる。どこに属し、どうつながるかを、自分で選び直せること。それも、これからのウェルビーイングの土台になるのだろう。
「自分とは何か」を、はっきりさせなくていい。
AIは、僕らの「好き」を学び、似たものを次々と差し出してくれる。心地いい。でも気をつけないと、その心地よさが、僕らを小さな「型」の中に閉じ込めてしまう。そう考えると、少し逆説的なことに気づく。「自分はこういう人間だ」とはっきり決めてしまうほど、僕らはAIに、そして社会に、型へはめ込まれやすくなるのかもしれない。
これまで僕らは、肩書きや強みで「自分」を説明しようとしてきた。就職活動や名刺交換も、「型」の中の自分を演じてきた。でも、できることの多くをAIが担う時代に、能力で自分を定義しようとすると、どこかで苦しくなると思う。人の尊さは、何ができるかとは別のところにあるように思っている。
労働という名の雇用形態を生み出したとき、会社という「型」をはめることで、自分たちのやりたいことや、自分らしい仕事ではなく、「会社が求める仕事」をやることで、お金という対価に変えていった。これは、自分でなくて誰でもできる業務であり、従業員という日本語も、会社に従う作業員なのだ、とWelluluの対談で気付かされた。だから、AIとの共生でいらない職業が生まれるという話が勃発するのだろう。
僕らの未来は、越境が当たり前で「遊び」と「仕事」が同じように語られる時代が来て欲しいと思っている。つまり、僕らは会社の「型」にはまって、会社に合わせて働く時代は終わり、自分たちの「求める」ものや「好き」なものを仕事にするように変化していくだろう。
自分らしい生き方は何か?
そんな考えを持ち、柔軟に臨機応変に変化していくくらいで良いのかもしれない。そうすると、「自分とは何か」を無理にはっきりさせる必要は、なくなっていくのだと思う。その日、その場所、その人との間で、ゆらぎながら立ち上がる自分でいい。少し不安で、でもずいぶん自由な生き方だ。
僕らが「自分探し」や「型にはめられる」ことに疲れてしまうのは、見つけるべき一つの答えがあると思い込んでいるからかもしれない。自分は探すものではなく、人との間で、そのつど生まれてくるもの。そう考えると、少し肩の力が抜ける。
僕はWelluluで、ウェルビーイングをあえて「定義しない」と言い続けてきた。主語をどこに置くかで、その意味は変わるからだ。自分自身についても、きっと同じなのだろう。
AIによって、いまある仕事の多くは姿を変えていくだろう。でも歴史をふり返れば、仕事が縮むとき、そこには必ず新しい欲望と新しい産業が生まれてきた。
「これは本当に、誰かの幸せにつながるのか」と問いを立てることをしたとき、この余白が心地よい感じになれば良い。そんな問いを持つと、何か違う可能性と欲望に気づき、それを失敗を恐れずやってみる。それは、人が人と出会い、心を揺さぶられることでしか生まれない。これからの仕事は、AIに任せられることは任せて、そのぶん人に会い、街を歩き、揺さぶられに行くことなのだと思う。
つながり過ぎた時代には、ときにあえて画面から離れることも必要なのだろう。食べること、触れること、においを感じること。そうした身体の感覚に還る時間だ。人間らしさとは、完璧さではなく、揺らぎのことなのかもしれない。定まらない自分が、誰かとの間で揺れ動く。その揺らぎこそが、新しい価値の源になっていく。
自分とは何か。その答えは、たぶんこの先もはっきりとは出ない。でも今は、それでいいと思える。答えを急がず、人の間で温もりを感じながら、ゆるくつながって生きていく。まずは、行動してみる。そして、偶発的な出逢いに何かを感じ取り、自分に出逢う。そこから、未来が変わっていく気がする。
堂上 研 株式会社ECOTONE代表取締役社長 Wellulu編集長
株式会社ECOTONE代表取締役社長
ウェルビーイングメディアWellulu編集長
情報経営イノベーション専門職(iU)大学教授
日本イノベーション協会 理事
私生活では、3人の子供の父。趣味は、スポーツとアート。