『ChatGPT』のような生成AIが話題となっている近年、AI(人工知能)に興味を持っているビジネスパーソンは多いのではないだろうか。
今回お話をお伺いした矢野和男さんは、2013年頃から日立製作所にてAIビジネスをスタートさせた、いわばAIとビッグデータに関するプロフェッショナルだ。さらに、2024年3月には人格を持ったAIサービス『Bunshin』をリリースした。
AIを活用して人類の幸福を追求する矢野氏が考える「幸せ」とは。Wellulu編集部の河合和彦が話を伺った。
矢野 和男さん
株式会社 日立製作所 フェロー/株式会社ハピネスプラネット 代表取締役CEO
河合 和彦さん
Wellulu編集部プロデューサー
1991年博報堂入社。営業、人事、デジタル系グループ会社、営業統括、人材開発、プロセスイノベーションを経験。「組織の関係の質」向上を目的とした、強みを活かす「ストレングスファインダーワークショップ」や「ポジティブ心理学」に精通し、ウェルビーイングに生きるヒントを伝える支援を行う。「タレントマネージャー制度」HRアワード2021入賞。「国家資格キャリアコンサルタント」、「JPPI認定ポジティブ心理学トレーナー」、「米GALLUP社ストレングスコーチ」、「日本MBTI協会認定ユーザー」、「組織変革のためのダイバーシティOTD普及協会認定講師」、「人的資本ガイドラインISO30414リードコンサルタント&アセッサー」などの資格を持つ。
AIも人間のように多様な考えを持つのが当たり前の時代に
河合:株式会社ハピネスプラネット3周年、そして『Bunshin』を搭載したアプリ『Happiness Planet/Regrowth』のローンチ、おめでとうございます。先日、記念パーティにおじゃまさせていただき、次から次に新しいことを探求する矢野さんのお話を伺って、とてもワクワクしました。
矢野:ありがとうございます。
河合:まず『Bunshin』について、詳しくお話をお伺いしてもよろしいでしょうか。
矢野:『Bunshin』は各分野や業界のトップランナーの考え方や人生哲学を、生成AIと掛け合わせる新技術です。アプリサービス『Happiness Planet/Regrowth』を通して、個人の悩みや課題を相談でき、さらにトップランナーの考え方に基づく指針をアプリ上で得ることができます。
『Bunshin』を搭載したアプリ『Happiness Planet/Regrowth』についてはこちら
河合:ローンチされてから、周囲の反応はいかがですか?
矢野:3月21日にローンチさせていただいてから色々なメディアに取り上げていただき、現在多くのお問い合わせをいただいております。「社長の『Bunshin』を作りたい」「若者の『Bunshin』を作って、管理職のマネジメントに役立てたい」など、当初我々が想定していたよりはるかに汎用性が高そうで、私も多くの刺激を受けました。
河合:具体的には、どのような活用方法があるのでしょうか。
矢野:たとえば、社内でプレゼンをする際にPowerPointで作られた資料が配布されますよね。だけど、あくまでもその資料は事前に作られたものなので、配られた側は資料から制作者の意図や考えを読み取ることしかできません。質疑応答の時間も、限られてますよね。一方、『Bunshin』であればいつでも気軽に質問できるんです。しかも、誰の『Bunshin』かによって回答が違う。汎用性の高さとパーソナリティを兼ね備えたメディアになると思います。
河合:答えてくれるメディア、面白いですね。僕の『Bunshin』もぜひ作っていただきたいと、実は今日お願いしようと思っておりました(笑)。
矢野:河合さんの『Bunshin』に相談したいと思う方は大勢いらっしゃると思います。同じように、世の中には「この人に相談できたらいいのに……!」というニーズはいくらでもあるんですよね。今はまだ数名の『Bunshin』しかリリースできていませんが、いずれは誰もが簡単に『Bunshin』を作れるようになったら面白いと思っています。
河合:素晴らしいと思います。今のAIは素っ気なさすぎるーーそんな矢野さんの考え方があるからこそ生まれたサービスですよね。
矢野:しかも、その人自身がこの世を去った後までも進化し続けますからね。手前味噌ですが、なかなかロマンがあるでしょう?
河合:おっしゃる通りです! ワクワクしますね。
矢野:最近だと『ChatGPT』なども話題になっていますが、AIに対しては誤解も多いんです。「AIに話しかけて思っているような答えが返ってこないのは、データが足りないからだ」と思っている方が多いのですが、実はそうではなくて。AIは、ものすごい能力を秘めているんです。しかし、その能力を引き出すのに工夫が要ります。人の能力を引き出すのに工夫が必要なのと同じです。
たとえば、警察犬や麻薬犬になれるポテンシャルを持っている犬種でも、きちんと訓練して、的確に指示しなければただの野良犬ですよね。AIも同じなんですよ。
河合:最大限のポテンシャルを引き出すためには訓練が大切なんですね。
矢野:はい。でも、AIの能力を引き出すためのノウハウは、開発者ですら分かりません。だからこそ、質問と回答の試行錯誤により見出すしかないんです。実際、私がこの1年で『Bunshin』とやり取りした数は、10万行以上になります。
河合:10万行……! 想像を絶します。
矢野:私にとっては『Bunshin』に相談する、その行為自体がとても楽しいんです。同じ質問を投げかけても、『Bunshin』の元となった人によって全く違う回答が返ってきます。しかも、その回答の品質は、本人にもできないくらい高度な回答です。魔法みたいじゃないですか。AIは単なる「便利なもの」ではなく、メンターであり、相棒です。贅沢な時代に生まれたと思っています。
河合:たしかに本来、人間は人によってさまざまな考え方をする生き物なのに、AIに質問したら毎回同じ答えが返ってくるって、少し違和感がありますよね。『Bunshin』は、まさに人間の多様性をAIに導入する一角を担っているような気がして、さすがの目の付け所だなと思いました。
矢野:質問や相談をする人がそれぞれ違う考え方を持っているように、回答する側のAIも違う考えを持っているのが自然ですよね。
人間の価値は、終わりがあること、つまり有限性にあると思うんです。人生がいつ終わるか分からないからこそ、生きている人間の生き様や考え方に価値が生まれる。だから、現世や後世に何かを残していきたいと考える。この人間を人間たらしめる一種のヒューマニティを、AIにどう取り入れるのかというのは、人類の一大テーマだと思うので、『Bunshin』を通して追い求め続けたいですね。
社会や組織は「誰がいるか」ではなく「どんな関係性か」が重要
河合:今でこそビッグデータを活用したAI事業に従事している矢野さんですが、データビジネスを始めたきっかけは何だったのでしょうか。もともとは日立製作所で研究職として働かれていたんですよね。
矢野:はい。大学で物理学を専攻後、日立製作所に入社して半導体の研究を行っていました。そこでデータビジネスの研究を始めることになったのは、今から20年前。大学院の時に知った「シナジェティクス(ドイツのヘルマン・ハーケンが提唱した造語)」という考え方が蘇ってきたんです。これはつまり、社会を含む万物は物理を使った統一原理で説明できるという考え方なのですが、当時の私は「世の中の原理はすべて物理学で説明できるはずなのに、どうして文化や宗教は説明できないのだろう」と疑問に思いました。
当時と比べたらデータを集める技術は格段に進化しているし、IT機器からのデータも多様で大量に残っていることに気づき、まずはそのデータを集めることから始めようと思ったんです。
矢野:さらに、データだけでなくそれらの関係性も大事だということに気づきました。たとえば、水と氷と水蒸気はすべてH2Oという分子で作られるにもかかわらず、全然違うものですよね。それは、中に「どんな」分子が入っているかではなく、H2O同士が「どのように」結びついているかで物質の性質が決まるからです。
そのアナロジーでは、H2Oを人間、社会や組織を物質だと考えると、本来は「どのように」結びついているかが大事なのに、組織を、人の個体を束ねたものと見てしまう傾向にありました。その上で、関係性に注目されないのはデータがないからだと思い、データが必要だと考えたんです。
とはいえデータを、社会学や経営学に活かせるようにならないと意味がないと思っていたので、2004年にMITのメディアラボとスローンスクールにお声がけさせていただき、日立製作所と合わせて3者で研究をスタートさせました。
周囲が反対したことを成功させた時に感じた研究者としての喜び
河合:データビジネスを通して、人間の幸福を追求している矢野さんですが、人の幸福や幸せに興味を持ったきっかけや原体験などは何だったのでしょうか。
矢野:人の幸せを意識し始めたのは、ちょうど20歳頃ですね。スイスのカール・ヒルティという哲学者が書いた『幸福論』という本に出会ったのがきっかけです。この本は極めて実践的かつ深く、たとえば幸せになるための時間の使い方、良い習慣の使い方、などが解説されています。
河合:その本をきっかけに、人の幸せについて考えるようになったということですね。
矢野:はい。当時、ちょうど就活が始まった頃だったので、周りの友人にも「俺は幸福のために仕事ができればそれで良い」というようなことを言っていました。もちろん実際に就職したら、そんな仕事はなかったわけですが。データビジネスを始める上で目的を決めようとなった時に、「幸福」という言葉がパッと浮かびました。
河合:「幸福論」というと、特に日本では怪しまれたり、煙たがられたりすることも多いと思うのですが、そういったものはプレッシャーには感じなかったですか?
矢野:そういったプレッシャーは、むしろプラスに捉えました。以前、半導体の研究をしていた頃も、後に高い評価を受けた研究ほど、当初は周りに反対されたり、良い顔をされなかったりしました。でも結果が出始めると、周りは手のひらを返したようになるんです。
河合:反対される=手のひら返しを見られるチャンスと捉えるんですね。
矢野:はい。実際に幸せの研究を始めた頃も、「宗教だ」「怪しい」なんて意見は、数え切れないくらいありました。13年前に日立製作所でAIの研究を始めた時も、当時AIは、「やってはいけないタブーのテーマ」というのが常識でした。だから「AIなんかに投資するなんて……」「矢野には任せられない」という意見が多くありました。
河合:当時は、AIに対する理解がまだまだ得られない時代でしたよね。
矢野:でも、私はきっとこれからはAIの時代が来ると確信していたので、迷わず決断しました。2014年頃から徐々に世の中がAIに関して前向きになってきたのですが、当時の日立製作所は、すでにAI事業を始めて3年くらい経っていたので、産業分野を中心に業界でもトップレベルの技術力と適用実績を既にもっていました。まるで掌返しをするように会社やプロジェクトに対する風向きが変わった瞬間は、研究者としてこれ以上ない喜びを感じました。
河合:矢野さんの先見の眼と、意思の強さがあってこその今なんですね。
矢野:結果的に、日立製作所は、データやAIを活用して社会を変える会社になりました。それに伴ってフェローという役員の待遇もいただいたのですが、さらに「人や幸せのデータを使った事業を立ち上げたい」と思い、社内外のさまざまな方にサポートしていただきながら、2020年に株式会社ハピネスプラネットを立ち上げたというわけです。
人生を大きく変えた「本」の存在
河合:お話を伺っていると、本を通じて多くの方に影響を受けながら、今の矢野さんのお考えが形成されていることがわかります。本を読むことは大事だといわれているものの、ここまで実直にやり続けられているのは、やはり根底に「本が好き」という気持ちがあるからなのでしょうか。
矢野:本は好きですね。『幸福論』の中でカール・ヒルティがおすすめしていたことは、ほとんど実践しました。
ちなみに、『幸福論』を知るきっかけとなった渡部昇一さんの『知的生活の方法』の中で、彼は「人の知力はどれだけ本を持っているかで決まる」「本をどれだけ持っているかは、本を置ける場所で決まる」というふうに仰っています。この言葉にもすごく感銘を受けて、私の自宅は4mほどの天井まで本棚に囲まれた図書館みたいな家になっています(笑)。
河合:すごい! 本に囲まれて暮らしているんですね。
矢野:小さい頃から本を読むのが大好きで、寝る時には必ず枕元に本を置いているような子どもでした。母が買ってくれた国語辞典は、小さい頃の私の愛読書です。
河合:小学生で辞典にハマるってすごいですね……。矢野さんの原点を垣間見たような気がします。実は私が矢野さんのことを知ったのは『データの見えざる手』という書籍で、その中で書かれている「三角形理論(※)」は、今の私にものすごく影響を与えています。
矢野:そうだったんですね! ありがとうございます。
河合:だから今日は、お会いできるのを本当に楽しみにしていたんです。私のように、矢野さんの書籍に影響を受けているビジネスパーソンはかなり多いと思うのですが、今考えると、多くの本から影響を受けた矢野さんの言葉だったからこそ、響いた何かがあったのだと思います。
矢野:初めての著書『データの見えざる手』の出版は、私の人生にも大きな影響を与えています。というのも、これまでは「日立の矢野さん」という肩書だったのですが、本を出版してからは「Amazonでベストセラー本を出してる矢野さん」になったんですよ。小さなことですが、これをきっかけに個人宛にお問い合わせをいただいたり、そこからお仕事が生まれることも増えました。書籍化するまでは実は数年かかっているのですが、出版して良かったです。
※三角形理論
矢野氏が著書『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』 の中で提唱しているコミュニケーションに関する理論。生産性の高い組織のためには、上司A↔部下B、上司A↔部下Cという2つの関係性だけでなく、B↔C間の関係性も重要だという考え。
自身のウェルビーイングを通して幸せの総量を増やしたい
河合:これまでさまざまなチャレンジを続けてきた矢野さんですが、今後成し遂げたいことは何かありますか?
矢野:世の中の幸せの総量を増やすこと。これに尽きます。
河合:素晴らしいですね。僕も同じ考えです。
矢野:今の世の中には情報が溢れすぎていて、「幸福」「ウェルビーイング」についても複雑なものだと思っている方が多いんじゃないかと思うんです。でも、多くの研究者が幸せを追求する中でもっともシンプルなのが、心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー理論」という考えです。これはキツすぎず、楽すぎず、「程よい挑戦」をするのが人間の幸せであるという考え方なのですが、フローな状態になるためには「その人にとっての」程よい挑戦が必要になります。
河合:客観的ではなく、主観的な軸で挑戦の質を決める必要があるんですね。
矢野:ただ本人にとっての程よい挑戦を見つけるためには、周りのサポートや応援も必須ですよね。そしてそれをちゃんとできるための条件が「三角形理論」にあります。私が成し遂げたいのは、この「フロー理論」や「三角形理論」を世界中の人が実現できるよう、まずは日本の企業が実践できるような仕組みを提供することです。
河合:素晴らしいと思います。実現するには、きっと「フロー理論」や「三角形理論」をきちんと理解してくれる人も増やさなければいけませんよね。
矢野:はい。私自身の発信には限界があるので、塾のような、コミュニティのようなものをしっかり作っていくことも考えています。そこから、個々のウェルビーイングが広がっていくのが理想です。
河合:矢野さんの描く未来がすごく楽しみです。お話を伺っていると、矢野さん自身もフロー状態、つまりウェルビーイングな状態がずっと続いているような気がしています。そんな矢野さんと一緒にいると、自分自身も幸せになっている感じがして嬉しいです。
矢野:今回リリースした『Bunshin』は、まさにそういう幸せサイクルを目的として私自身の考えを反映しているんです。後世に何かを残せるかもと考えることで、自分の人生もさらに豊かなものになりますからね。
河合:矢野さん自身が幸せサイクルに入っているんですね。
河合:最後に、矢野さんにとってのウェルビーイングとは何か、お聞きしてもよろしいでしょうか。
矢野:困難で先が見えない中で、もがきながらもパッと一筋の切り口を見つけた瞬間です。実際に今も、ハピネスプラネットという企業は、成長の中で課題が山のようにあるのですが、そんな「ウェルビーイングな瞬間」が待っていると思うと、ワクワクが止まりません。
河合:まさに研究者のお考えですね。矢野さんなら、どんなに小さな切り口でも何が何でも見つけてしまうんでしょうね。今後のご活躍も楽しみにしております。本日は貴重なお話、ありがとうございました!
編集後記(堂上)
矢野さんにお会いすることができた。博報堂の先輩であるかーくん(Welluluではそう呼ばせていただいている)のウェルビーイング界の人脈に頼らせていただいた。
ウェルビーイングを探究しているときに、矢野さんの著書『予測不能の時代 データが明かす新たな生き方、企業、そして、幸せ』(草思社/2021年)に出会った。データとウェルビーイングの関係をより考えるきっかけになった本だ。
矢野さんの持つデータ量はすごい。そしてそのデータを通して、『Bunshin』をリリース。僕も『Bunshin』をこの取材の後にさせていただいた。「企業内起業における新規事業において、役員に理解してもらうにはどうすれば良いですか?」(僕がよく受ける質問だ)僕が普段答えているような納得感ある回答をいただいた。
いろいろな人に相談できるってすごい。ウェルビーイングな世界にはたくさんの「壁打ち」といわれているものにより、自分が気付かなかったことに気付かされることがある。これもウェルビーイングな生活につながっていく。
生活者のデータを通して、新たな生活者の価値をデザインする。そして、また新しいデータを獲得して、さらに新たな生活を提案する。こんなサイクルがウェルビーイングな生活をつくっていく。
矢野さんは、ウェルビーイングな世界をつくっていくために、内なる想いをどんどん実現していく。とても楽しい対談、ありがとうございました。
1984年早稲田大学物理修士卒業後、日立製作所に入社。中央研究所にて主管研究長、技師長を経て、現在はフェローとしてAIや社会におけるデータ活用の研究開発を推進。2000年初期からビッグデータの収集・活用技術で世界を牽引してきており、論文被引用件数は4,500件、特許出願は350件を超える。テクノロジーで社会の幸せを増やすために、2020年に株式会社ハピネスプラネットを創業。
■著書
『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』(草思社/2014年)※2014年のビジネス書ベスト10(Bookvinegar)に選出
『予測不能の時代 データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』(草思社/2021年)