山極壽一先生×占部まり氏の講演へ
新型コロナウイルス感染症の蔓延に伴う、規制が緩和された 2023年。約4年ぶりの ”日常” が戻ってきた。社会全体が迎えた「禍」を乗り越えて、我々の社会はどこに向かっていくだろうか?
霊長類学者で「人間はゴリラに学ぶべきだ」と説く山極壽一氏の講演をはじめて聞いたのは、比叡山延暦寺のとき。とても、衝撃的だった。そのときは、人間の生きる本質を見出しているように感じた。同時に、そこでお会いしてすっかり虜になった、経済学者・宇沢弘文氏 を父親にもち、その理論(社会的共通資本)の紹介と社会実装に向けて活動する占部まりさんのダブル講演があった。
さまざまな角度から現代社会を眺め、未来の社会のあり方と、個人の生き方について考える素適な週末をおくることができた。僕らは、この混沌とした社会にウェルビーイングというゆるい言葉だけで、人と人の関係や、過去と未来を紡いでいってもよいのだろうか? 僕の中で解はない。けれども、あきらかに今の時代において、経済学者宇沢氏が何十年も前に語っていた「社会的共通資本」の考えを意識しないといけに時代にたどりついたのだろう、と思う。
主催:学士会YELL、京都大学同窓会若手会
共催:株式会社eumo
協力:一般社団法人学士会、株式会社GENERYS
あまりに楽しい講演だったので、何から共有すれば良いのか迷ってしまう。そして、うまく僕が感じとったことが、山極先生や占部まりさんの意図することとずれている場合はご容赦ねがいたい。僕の感じたウェルビーイングな生活という視点でお伝えしたいと思う。
「出会いと気づきが生まれる」新たな社交をつくっていくこと
最初に、山極先生における「共感社会の進化と第二のノマド時代」の講演があった。人類の進化の話から、脳がなぜ大きくなったのか、他の類人猿との違いは何かなどの話からはじまった。我々の脳の変化は集団規模の変化で大きくなったとのこと。仲間の数は増えると、有利に生きられるようになる。脳がそう判断したそうだ。ところが、ある一定以上の人数の集団になると人間の脳は大きくなるのをやめたそうだ。
人間の集団規模とコミュニケーションは、10~15人規模であれば、言葉が要らない「共鳴集団」で生活がができる。ラグビーやサッカーの試合で15人とか11人で、お互い言葉を使わなくてもお互いを理解しあえるとのことだ。僕もサッカーの試合において、味方とコミュニケーションをとるために「声を出す」というのは大切だが、遠く離れた選手に対して、声を出さずとも、目線や体の向きとかで感じあうことができるということだろう。
そして、30~50人規模は、顔と性格を熟知して、一致して動ける集団だ。1クラス分の授業において、学校の中である程度の統率がとれる集団だ。会社の中の集団で考えても、ひとつの部署という感じだろう。それ以上になると、なかなかお互いが何をしているのか見えなくなってしまう。
100人~150人規模は、信頼できる仲間がいて、顔と名前が一致する集団規模だ。それ以上になると、「言葉」が必要になっているとのことだ。
人間の本質とは何か? これは「どう、よりよく生きるか?」という問いと重なる。我々は何者か、我々は何を目指すべきか、そして、我々の生きるということは何か? 山極先生は、「音楽的コミュニケーション」で結びついた身体の共鳴の共感力をベースに「ゆるいつながり」の中での共生ができるところにあるとおっしゃっていた。
言葉がもたらしたものとして、「物語をつくり共有する能力」「想像し創造する能力」「架空なものを描く能力」などを育んできた。新しい人間の暮らしは、テクノロジーの進化により、今までの集団(血縁や社縁)の関係性がうすくなってきているので、新たな「社交」をつくっていくことにある。
音楽的コミュニケーションとリズムにおける「社交」が「よりよく生きるための人間の本質」につながっているように感じた。僕たち人間は、ただ心身の健康であれば良いわけではなく、人と人とのコミュニティの中で生きている。その上で、小さなコミュニティの中で、お互いが言葉を交わさないでも、音楽的コミュニケーションとリズムで分かり合えるものが生まれていく。その小さなコミュニティが「文化」になり、その文化がいろいろなコミュニティをつないでいくのだろう。
僕らが生きていく上で「教育」がもっとも重要な人間の営みだということだ。山極先生が若い人たちとのディスカッションの中で、「教育」の話は面白かった。教育はコモンズであり、教育で一番大切なのは「出会いと気づき」であるとのこと。人間が、生きていく上で、新しい縁(コミュニティ)をつくり、ある目的において共同体験ができる場が必要になるだろう。同じ夢と希望を生み出す新たな「社交」が自然と生まれてくるのだ。
自分で考え、自分で実行できる教育に変えていかないといけない。僕自身、今の日本の教育には疑問を感じているものだったので、この視点は面白い。自分の子どもたちには、「出会いと気づき」がたくさん生まれる場を提供したい、そう思うのは親心だ。けれども、実際の教育の場は、画一的な教えの場になっているように感じる。
山極先生の新著「
コミュニティの中と外、真のゆたかさとは?
次に、占部まりさんの「社会的共通資本の現在と実践」ゆたかさとはなにか?の講演があった。宇沢先生の経済に関する考え方は、僕が共創社会をつくる上でのビジネスの教科書として読ませていただいている。「
ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な過程を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。「
ここで書かれている社会が、僕の目指すべき「ウェルビーイング共創社会」をそのまま言い当てていたのだ。2000年は、僕が社会人になってまだ2年目だ。ウェルビーイングを語るときに、個人のウェルビーイング、コミュニティのウェルビーイング、社会のウェルビーイング、地球のウェルビーイングで分けて語られる。それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限生かされる状況、つまり個人のウェルビーイングな状態が、まずはゆたかな社会のスタートとなるのだ。
1つの国ないしは、特定の地域に住むすべての人々がゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置「
失われた30年と言われる間、国や企業は、自分たちの利益追求をするために、弱者を労働力と捉えて、弱者を犠牲にし、すべての人々へのゆたかな経済生活を営む装置づくりを怠ったのかもしれない。それは広告会社やコンサルティング会社が「競争」をベースにシェアを奪い自分たちの利益追求をリードしてきたのかもと思う。
経済学の話を、人間中心にお話くださった。ほぼ、社会に選択される状態になっているのを、自分が選択できるようにすることからはじまるという話が面白かった。あとのディスカッションでも、山極先生からも「自分で選ぶ」生き方を推奨していた。
人間の多様性と、植物の多様性は、多種多様に助け合っている状態が重要だという話になった。「協生農法」という拡張生態系の実証実験において、生き抜くための新たな生態系が生まれてくとのことだ。この多種多様な社会において、共感にかかわるコミュニティが生まれてくる。
そして、「愛」の話になった。「恋」は「心」は下にあるが、「愛」は「心」が真ん中にある、という話になった。ただ、愛は、なかなかうまく行かない。マッサージをしてもらっていると気持ちが良い。そして、マッサージをしている側も気持ちよい状態になる。それはオキシトシンが出ているとのことだ。ただ、オキシトシンが出すぎると、自分が守りたいもの以外のコミュニティの外の人間を攻撃する性質があるそうだ。
ウェルビーイングなコミュニティで、居心地よく過ごそうと思っていたら、他者との共感を受け入れず、そのコミュニティの外の人を除外するか、攻撃してしまうのだろう。人とのつながりの中で生まれるウェルビーイングなコミュニティは、相手を受け入れ、共感しあえる社会に解があるように感じた。そんな共創社会をつくっていくためには、対話が重要だし、それぞれの専門家が対話の中に入っていくことも大切だという話になった。
プリミティブなものでつくられているので、対話をしていくことが重要だと思っている。専門家同士の会話が重要。官僚的管理はやっちゃいけない。現場を知る人から湧き上がってくるものをつくるべき。コミュニティの輪から外れた人との対話をもつ共感力が必要になるということだろう。
森やアートの中で、音楽的コミュニケーションを
ウェルビーイングを語るときに、自分と向き合い、他者と向き合い、自然と向き合うこと、そしてそういった向き合う「場」を持つことが重要だと思っている。今日の山極先生と占部まりさんの話も同様の話になった。
「森を歩け。そうするといろいろなものが語り掛けてくる。」
僕たちは、ついつい時代や社会や政治のせいにして、自分に対しての水やりを怠ってしまう。森は多様な生物が生きている。彼らと音楽的コミュニケーションで対話することで、自分と向き合うことができる、というのだ。自分では、知らないことでさえも知らなかったことに気づく。これも教育だろう。僕たちは、森やアートから、出会いと気づきを与えてもらう。そうすると、森やアートは、偉大な先生ということだろう。
「大学は、巨大なジャングルである。」「音楽は、時間の芸術である。」
それぞれが違う種の生き物がいるから、多様であるからこそワクワクするものが生まれている。人とのつながりが大事というけれども、教えに行っているというのは、逆に気付きを与えている。無条件の愛が、好循環をつくっている。自分自身が選択できる側に行くと、見える景色が変わっていく。植物や虫や鳥とも会話をしてきた。時間の芸術である。鳥も虫も語りかけてくる。自然を相手にしていると、出会いと気づきにあふれている。
「いっしょにいるだけで良い。」
ウェルビーイングな環境の究極は、この言葉に包含されているように感じた。僕らは、音楽的コミュニケーションで、子どもが安心してくれる場をつくっているように、森や自然と同調して対話をする。それは、いっしょにいるだけで心地よい時間と場所を持つだけで良いのかもしれない。森を歩きたくなった。最後に、エンパシーのほうの共感を感じることができた。
「人生最後に聴きたい音はなんですか? 」
最後に、占部まりさんが、僕らに送ってくれた問いが頭から離れない。最後の食事(晩餐)の話をよくするけれども、最後に聴きたい音はなんだろう?こんなことを考える時間も良い時間だ。出会いと気づきの1日だった。
京大若手会のみなさんが撮影した写真も使わせていただいている。素適な時間を過ごさせていただいた。主催運営でこのような企画をつくってくださった村尾さんはじめ、岩波さんありがとうございました。
京都大学人と社会の未来研究院 社会的共通資本と未来寄附研究部門 https://sccf.ifohs.kyoto-u.ac.jp/ja/
宇沢国際学館 https://peatix.com/group/2041970
堂上 研 Wellulu 編集部プロデューサー