子どもをはじめとした多世代交流の場として、全国に根を広げている「こども食堂」。そのサポートを担う「認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ」の理事長が湯浅誠さんだ。
「雑多な環境こそ居心地が良い」と語る湯浅さんは、障がい者の兄を持ち、幼い頃から多様な人と触れ合ってきた。年齢、学力、収入などの格差によって“分断”されがちな現代社会にこそ必要だという「ごちゃまぜの場」とは?
型にはまらない波乱万丈な半生を軸に、「いつだって楽しい」と笑う湯浅さんのウェルビーイングな生き方にWellulu編集部の堂上研が迫る。
湯浅 誠さん
社会活動家
東京大学先端科学技術研究センター特任教授
認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長
堂上 研
Wellulu編集部プロデューサー
1999年に博報堂へ入社後、新規事業開発におけるビジネスデザインディレクターや経団連タスクフォース委員、Better Co-Beingプロジェクトファウンダーなどを歴任。2023年、Wellulu立ち上げに伴い編集部プロデューサーに就任。
車椅子の兄とも“みんなで遊べる”草野球を考案
堂上:今回は湯浅さんの「むすびえ」としての活動はもちろん、その原体験や人生観についてもたっぷりと伺っていきますね。ぜひこの空間を楽しんでいただいて(笑)、ざっくばらんにお話しできたらと思います。まず湯浅さんご自身は、どんな子どもだったのでしょうか?
湯浅:親は自分に注意を向けていないなと思っていましたね。兄が重度の身体障がい者で、うちの家は彼を中心に回っていたんです。たとえば夕飯に餃子が大皿で出されると、父は兄の取り皿に次々とのせていく。「いいよ、自分で取れるから」「いいから食べなさい」という兄貴と父親の応酬を、私は「勝手にやっていれば」と横で見ているわけです。
堂上:お母さまはどんな方だったのですか?
湯浅:天然な人でした。放任主義で「勉強しなさい」「テスト、どうだったの」なんて一回も言われなかった。通知簿も「見せて」とせっつかれたこともないですね。夏休みが明ける直前の8月31日に「親から一言もらわなきゃいけないから書いて」と、そこで初めて渡したくらい。ああ、親は俺に関心ないんだなって。
堂上:「俺だって、もっとかまってほしいのに」と思っていたのかもですね。
湯浅:そう、今振り返ってみると、ちょっと拗ねていたわけですね。私には風来坊なところがあって、小4でふらっと新宿に遊びに行ったり、中2で京都に一人旅して渡月橋のたもとで野宿したりしてましたが、無意識に「心配してほしい」というのもあったのかもしれません。
堂上:子ども時代は何をするのが一番楽しかったですか?
湯浅:シンプルに友達と遊んでいるときですね。ありがたかったのは、兄のためにボランティアの大学生が家に来てくれて、私とも遊んでくれたことです。とくに有賀さんという方は記憶に残っていますね。立ち上がれない兄でも遊べるように、「風船バレーボール」を考案してくれたんです。部屋の中に紐を張って、風船をボール代わりにしてね。
堂上:へえ、興味深いですね。障がいがあるからこそ、新しい遊びを創造することができた。
湯浅:草野球でも「車椅子の兄ちゃんをいかに混ぜるか」を友達みんなと考えていました。というか、考えざるを得ない。それで最初に何をやったかというと、兄貴を監督にしたんですよ。
堂上:なるほど!
湯浅:だけどこれは全然ダメだった。兄貴はつまらなそうに試合を見ているわけですよ。「俺を参加させられないから、体よく監督に仕立て上げたんだろ」と。兄貴がしらけているものだから、こっちも盛り上げられない。やっぱりゲームってみんなが参加しないと楽しくないじゃないですか。
堂上:お兄さんもプレイヤーとして活躍できるようにしなくてはと。
湯浅:そうなんです。そこで、兄貴がバッターボックスに立った時は、ピッチャーは3歩前に出て下手(したて)で投げる。兄貴がバットを振ったら、その後ろに控えた代走がダッシュする。そんなルールを開発したんです。
堂上:面白い! 子どもたちだけで、新たな遊びを発明する。そんな環境が常にあったのですね。
湯浅:こうすれば、兄貴の打率は3割ぐらい。他の子と変わりません。車椅子の人が健常者とイコールになるルールを、子どもだけで考えたんです。既存のものを「みんなが楽しめる」ようにカスタマイズするのは、まさにイノベーションですよね。そもそも兄貴がいなければ、野球のルールを疑って「もっとよくできるんじゃないか」と考えることもなかったでしょう。
堂上:さっきの風船バレーボールもそうですが、非常にクリエイティブですよね。関西ではさまざまな年齢の人が集まって遊ぶ時、年齢が低くてハンディが必要な子を「ごまめ」と呼んでいましたが、そうした子も垣根を感じず楽しめるように、新しい遊びへと発展させていくのと同じですね。
湯浅:おっしゃる通りですね。ちなみに私の地域ではごまめではなく「おみそ」と呼んでいました。異年齢との遊びは、体力も走る力もまったく違うなかに混ざるということ。障がい者と同じ状況ですよね。「ごまめ」だろうと「おみそ」だろうと、どの地域でも子どもたちは“みんなで遊べるように新たなルールを開発”している。自分たちでカスタマイズする力を、子どもは本来持っていると思います。
だけどそこに大人がやって来て「お兄ちゃんがかわいそう」「みんなも相手をさせられてかわいそう」などと言って私たちを分離させてしまうと、もうルールを疑い、再構築する必要がなくなってしまう。
堂上:大人による価値観の押しつけですよね。まさに今日、別件の取材でも「親が介入しないほうが子どもはウェルビーイングになる」というお話を伺ったところでした。
湯浅:「インクルーシブ教育」に反対する親御さんたちがいます。気持ちはわかります。確かに大変だと思うから。障がいがある子は突然立ち上がったり、大声を上げたり、走り回ったりしますから。「うちの子の勉強が遅れたらどうしてくれるんだ。その子のためにも、特別支援学級に入れてください」と分離したくなるし、そのほうが「その子のためでもある」と言われたりもします。でも、それによって子どもたちから考える機会が失われているという面も、私の経験からはあるような気がします。
児童養護施設から始まった「ボランティア人生」
堂上:湯浅さんは成長していくにつれて、どんな物事に興味を抱いていったんでしょうか?
湯浅:やっぱり有賀さんのようなボランティアの方にかまってもらったことが、私のなかではとても大きくて。「大学生になったら自分もボランティア活動をする」と、ごく当たり前に思っていました。当時はそんな学生はほとんどいませんでしたからね。変な目で見られましたけど(笑)。
堂上:どういったボランティア活動を?
湯浅:自治体のボランティアセンターでたまたま紹介されたのが、児童養護施設の学習ボランティアでした。杉並区にある、その名も「杉並学園」というところが最初の活動場所です。
堂上:養護施設で暮らす子どもたちの勉強をサポートするということですか?
湯浅:そうです。養護施設の職員は生活指導で手いっぱいなんですよ。とても勉強を見る時間がないので、私のような外部のボランティアグループが週に1回2時間、小学校6年生から中学校3年生の勉強を食堂で見るんです。
堂上:どれくらいの期間、そこでボランティアを?
湯浅:2年間ですね。出会ったなかには、色々な難しさを抱えている子もいました。
堂上:大学生にして、多様な人たちと接する機会があったのですね。
湯浅:もともとそういう環境が好きなんでしょうね。これはこども食堂をやるようになって思い出したのですが、おそらく私のルーツには「大家族」がある。3歳までは同じ敷地内に母方の兄家族や祖父母も住んでいて、そのせいか雑多な人たちといるのが落ち着くんですよ。
だからボランティアサークルは楽しかったし、面白かった。「北海道で酪農をやる」という夢を語ってくれたボランティア仲間もいました。
堂上:個性的な人たちに出会えたわけですね。幼少期の影響もあって、そういう環境が湯浅さんにとっては居心地がいいんですね。
湯浅:兄貴が通っていた養護学校を訪れた時も、幼心に「人間って色々なんだ」と感じましたしね。私、大学には全然行かなかったんですよ。同じ学力の人間が集まった画一的な空間にはどうもなじめなくて。
堂上:幼少期、自ら望んで多様な環境に身を置いたわけではないけれども、それを受け入れながら生きてきたことで、湯浅さんにとって「もっとも居心地のいい状態」になっていったわけですね。
大学生になっても、お父様とお母様は「好きにしなさい」と放任主義だったんですか?
湯浅:いやあ、心配だったと思いますよ。大学に行かないでボランティアばっかりやっていましたから。ホームレス支援を始めた時なんて、母ちゃんに「あんた最近、ホームレスにハマってるみたいだけど、どうしたの」と言われました。
母にも色々な葛藤があっただろうけど、一貫して言い続けていたのは「もうとにかく健康であればいい」。やっぱり兄貴のことがありますから、本気で「生きてさえいてくれれば」と思っていた。それもあって、私のやることに口出ししなかったんでしょうね。
ホームレス支援でのショック「人は見たいものしか見ない」
堂上:ホームレス支援についてもぜひ伺わせてください。そういった団体に所属して活動されていた?
湯浅:大学の友人が中心になってやっていたんですよ。ちょうど私が大学院に受かった頃で、入学まで半年あるので何かやりたいなと。それで友人の活動を見に渋谷へ出かけたんです。当時の渋谷にはホームレスが100人くらいいて、センター街なども歩いているわけです。それまでよく遊びに来ていた街だったのに、私はホームレスの人がいることに気づいてもいなかった。「人間は見たいものしか見ないんだ」と、つくづくショックを受けました。
堂上:それは大きな発見ですね。具体的にはどんな支援をされていたんですか?
湯浅:ひとつは炊き出しですね。雑炊をなみなみ注いだ寸胴鍋を持って、路上を回っていく。食事を配るというよりは、仲良くなるためのコミュニケーションツールなんですよ。雑炊をきっかけに、だんだんと仕事や病気の話を打ち明けてくれるようになっていく。困っていることがわかれば「じゃあ一緒に役所に行きましょう」と提案もできる。
堂上:なるほど。いや、まったく知らない世界でした。時期としてはバブルが弾けた直後ですよね?
湯浅:そうですね。「世の中が壊れ始めている」という最初のサインが、ホームレスの人たちだった。
堂上:社会全体には、まだまだバブルの空気が漂っていましたよね。
湯浅:でも我々ホームレスボランティアは、そのころから「日本の貧困」を目にしていた。いわば炭鉱のカナリアですね。メディアはホームレスを世捨て人として報じていましたが、私たちは「社会問題だ」と危機意識を持っていました。
堂上:今もホームレスの人は増え続けているんでしょうか?
湯浅:私たちがボランティアを始めた1990年代から2000年にかけて爆発的に増加しました。渋谷でいえば100人から600人にまで膨れ上がり、ホームレスの人を受け入れられるキャパシティを超えてしまった。隅田川沿いにずらっとホームレスのテントが並ぶなど、全国各地でそうした現象が起き始めたので、2002年には「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が施行されました。
堂上:今の隅田川では、ほぼそうした光景は見ないですね。
湯浅:ええ、ずいぶん変わりました。今も残るホームレスの人は精神疾患を抱えていたりと、また別の問題を抱えている人が少なくありません。
ホームレスたちと「便利屋」に! ゴミ屋敷に挑む
堂上:大学院を出た後はどんな活動をされていたんですか?
湯浅:便利屋です(笑)。
堂上:……べ、便利屋? 依頼があったら柔軟にサポートするような?
湯浅:ホームレス支援の延長線上なんですよ。というのも、いくらホームレスの人と一緒に路上活動を一生懸命やっていても、結局のところ私には帰る家があるんですよね。それがどうにも落ち着かなかった。
ホームレスの人って、実はすごく忙しいんですよ。なぜかというと、並ばなくちゃいけないから。
堂上:炊き出しなどに、ですか?
湯浅:毎日の食事確保や現金収入のためにですね。「食べられる状態」で出してくれるお店があって、夜の10時にはその店の裏手にものすごい列ができる。
そんな並ぶことに忙しい彼らは、東京ドームとかにも並ぶ。元締めから「チケットを確保しろ」と並ばされるのですが、一晩中立ちっぱなしで報酬は2,000円。そうやってとにかくあっちこっちに並び続けている。
堂上:その合間をぬって、湯浅さんたちとボランティア活動もしているわけですよね。
湯浅:そう、「大事な活動だから」と言ってくれてね。その間は食事も現金収入も途絶えるのに……。それは活動中もずっと引っかかっていました。なので「一緒に便利屋をやって、一緒に食っていこう」と。ホームレスのおっちゃんも私も、みんな1日単価6,000円。フェアな“仕事”にしようと試みました。
堂上:どういった依頼を受けていたんですか?
湯浅:はじめは引っ越しの運搬でしたね。でも大手のようなトラックや若いスタッフなんて全然いない。こっちは平均年齢55歳ですよ。普通免許を持っているのも私だけだし、車もないから毎回レンタカーです。
堂上:めちゃくちゃ経費がかかるじゃないですか。
湯浅:そうなんですよ。価格競争では大手に絶対かなわない。引っ越し屋は早々にあきらめました。でもその経験があったおかげで、「競合が寄り付かない」事業を発見できたんです。
堂上:えっ、なんでしょう?
湯浅:遺品整理、今で言うゴミ屋敷の片付けです。半年前の牛乳パックや虫が散らばっている家に分け入って、場合によっては死体の発見者にもなってしまうわけだから、他の誰もやりたがらない。「これだ!」と閃いて、5年ほど取り組みました。気持ちいいんですよ、滝のように汗をかくので。
堂上:すごいなぁ。湯浅さん、「不思議な人」って言われません?
湯浅:ずっと言われ続けてきましたよ(笑)。
堂上:僕は面白い人が大好きなので、今日のお話はどれもめっちゃ楽しいです。お兄さまとの遊びを考えること然り、便利屋の事業然り、様々な環境に抵抗がなく入っていけるんですね。しかもそこで「新しいもの」を創造している。
湯浅:結果的に、ですね。遺品整理の仕事でもね、まずゴミ屋敷をきれいに片づけるでしょう。そうするとジュクジュクになった畳が露わになるんです。それを「フローリングにできるかしら」と大家さんに聞かれまして。
仕事の幅が広がるチャンスじゃないですか。「誰か大工仕事ができる人はいない?」と路上を探し回ったんですよ。そうしたらいたんです、「俺できるよ」と言うおっちゃんが。
堂上:おお、元々大工の方だったんですか?
湯浅:いや、それがわからないんです。本当にできるのか、はったりなのか。で、思い切って賭けてみることにしたんです。ホームセンターへ一緒に行ってフローリングを買って、貼り直してもらった。もう、見事な出来栄えでした。そこからは屋根の補修や内装工事全般を彼に引き受けてもらいました。
堂上:ご本人もやりがいがあったでしょうね。
湯浅:それは見るからに感じましたね。路上にいる時って、目がとろんとしているんですよ。なんだかやる気がないようにも映るんだけれど、現場に入った途端、眼差しにカッと力が宿る。やっぱり仕事って大事なんだ、自分の力を生き生きと発揮できる場が必要なんだと、ものすごく感動しました。便利屋は本当に楽しかった。今でもやりたいくらいです。
1万回会うよりも1度の食事
堂上:それがなぜ、5年でやめることに?
湯浅:2006年あたりから、貧困問題の論者として、メディアに引っ張られるようになったんです。その活動が忙しくなってしまったので、便利屋の仕事は他のメンバーに回してもらうことになったんです。
堂上:なるほど。やりたかったけれど、求められるものが少しずつ変わっていったんですね。便利屋のメンバーであるホームレスの方たちは、事業を通じて収入を得て、自分たちの住まいも借りられるようになったのですか?
湯浅:はい。ただ、路上に残る選択をした人もいます。それは金銭面以外に様々な困難を抱えているから。たとえば毎月の家賃や光熱費を「自動振り込み」することができない。内装工事を一手に担ってくれた彼は、腕のある職人さんだったけれど、地図を読めないために「今日の現場」を指示されてもたどり着けず、職を失ってしまった。
今でこそ「発達障害」の認知も広がりましたが、当時はそういった特性があるなんてまったく理解してもらえなかった。ただ「この人たちは働きたくないんだな」と見なされてクビになって、ホームレスにならざるを得なかったのです。
堂上:その時代は寛容さがなかったんでしょうね。
湯浅:キメが粗かったと私は思っています。一人ひとりの事情になかなか目を向けられなかった。
堂上:そうした個々人のカラーに湯浅さんが気づいた契機のひとつが、ホームレス支援での「炊き出し」ですよね。食を通じたコミュニケーションというのは、現在のこども食堂での活動にもつながるように思います。
湯浅:「子ども」と「食」というのは“最強のきっかけ”なんです。こども食堂を運営する方々は「居場所」を作りたいんですよ。ビジョンを語ってもらうと「地域の皆さんが気軽に立ち寄れる場所にしたい」とおっしゃる。美味しいものを出したいというより、ホッとできる空間を提供したいんです。
堂上:「こども食堂」というからには、子どもだけが集まる場所なのかなと最初は思ったんです。でも、その子たちを迎えに来る親たちなども含めた、地域のコミュニティなんですね。
湯浅:じつは全国に9,000箇所あるこども食堂の3分の2には、高齢者も参加しています。多世代交流の場なんですよ。
堂上:ええっ、存じ上げませんでした。じゃあ近所のおじいちゃんやおばあちゃんも一緒に集まって、寄り合い所みたいになっているんだ。それでみんなで同じ食事を囲むと。
湯浅:「1万回会うよりも1回の食事」という中国のことわざがあるんです。話しているだけだとどうも深まり切らない仲が、会食を一度するだけでグンと近づくじゃないですか。壁が突破されるというか。
堂上:とてもわかります。仕事にしろプライベートにしろ、相手の心を掴みたい時にはやっぱり食事に誘いますものね。
湯浅:音楽だって遊びだってコミュニケーションツールになり得るけれど、やっぱり食は最強ですよ。
1990年代よりホームレス支援・生活困窮者支援に従事。内閣府参与、内閣官房社会的包摂推進室長、震災ボランティア連携室長などを歴任。2018年に全国のこども食堂を支援するための「認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ」を設立。