100mハードルで日本記録を樹立し、日本陸上競技選手権大会で優勝、世界陸上競技選手権大会に3度出場。東京オリンピックでは日本人で同種目21年ぶりの準決勝進出を果たした寺田明日香さん。日本を代表するオリンピアンは、どんな人生を歩んできたのだろうか。
一度現役を引退し、結婚・大学進学・出産を経て、ラグビーに転向。その後、陸上に復帰という波乱万丈な経験をした寺田さんと、Wellulu編集長・堂上研との対談が実現した。
寺田 明日香さん
陸上競技選手(100mハードル)
堂上 研さん
株式会社ECOTONE 代表取締役社長/Wellulu 編集長
1999年に博報堂へ入社後、新規事業開発におけるビジネスデザインディレクターや経団連タスクフォース委員、Better Co-Beingプロジェクトファウンダーなどを歴任。2023年、Wellulu立ち上げに伴い編集長に就任。2024年10月、株式会社ECOTONEを立ち上げる。
https://ecotone.co.jp/
元陸上選手の母からかけられた言葉とは
堂上:『Wellulu』の読者には子どもを持つ親も多くて、子育てに悩んでいたり、どうやったらオリンピアンが育つのだろうという関心を持っていたりする人もいらっしゃるんです。今日の対談をとても楽しみにしていました!
早速、明日香さんの幼少期についてお伺いしたいのですが、小さい頃からスポーツをされていたのでしょうか? 夢中になっていたことなどがあれば教えてください。
寺田:私は幼稚園に入園後から小学校に入るまでは、器械体操をしていました。その後は、地域の方が教えてくれるスポーツ少年団でソフトテニスをやったり、ミニバスケットボールや水泳をやったり、身体を動かすのが大好きでしたね! 北海道出身なのですが、木登りをしたり、小学校の休み時間は男の子たちとサッカーや野球をしたりするような子でした。
堂上:明日香さんのご両親は陸上をやられていたとのことですが、スポーツをやっている時にどのような声がけや指導をされていましたか?
寺田:基本的に両親はノータッチでしたね。やりたいことをやらせてくれましたが、練習に口出しをすることはなかったです。ただ小学4年生で陸上を始めた時は、母が公園での練習に付き合ってくれました。
堂上:ご両親からかけられた言葉で覚えているものはありますか?
寺田:中学生になって調子が悪かった時期、試合前に一緒に走る子たちと雑談していたんです。そうしたら母から「やるんだったらちゃんとやれ、他の子に迷惑をかけるな」と言われたのを覚えています。試合前は集中している子たちもいるので、その子たちの邪魔をするなと。
堂上:お母様の気持ち、分かるなぁ。僕も娘が新体操、息子がサッカーを頑張っているのですが、練習をサボろうとする姿を見るとつい「ちゃんとやれ」と言ってしまいます。お母様に言われた時はどう思いました?
寺田:やってるし、って思いました(笑)。やっぱり親から指導されるとつい反抗的になってしまいますね。
堂上:そうですよね。子どもからはそう思われるだろうなと思いながらも、親になると言いたくなってしまうものです。それでもやめずに続けられたのはなぜだったのでしょう?
寺田:すぐに結果に繋がったことでしょうか。100m走で札幌市の大会に出たのですが、初出場で2位になり、北海道大会へ行くことになりました。北海道大会では4位に入賞したのですが、「1位になると東京で開催する全国大会に行ける」と知って、全国大会を目指してクラブチームに入りました。そうすると次第に出場することへの責任感も出てきましたし、そこからは母もいっさい口を出さなくなって、母との関係性も良くなったんです。
堂上:いきなり北海道大会まで行かれたのですね。でもお母様もそこで指導をやめられて、グッと引かれたのは素晴らしいと思います。
寺田:そうですね。じつは母はインターハイも日本選手権も世界陸上も、一度も見にきていないんです。東京オリンピックも無観客でしたしね。生で見るとドキドキしてしまうので、テレビで見るくらいがちょうどいい、と言っていました。
堂上:えー! そうなんですか!? 親としては行きたくなってしまいそうだけれど……。僕なんか、自分の息子のサッカーの試合は優先して行ってしまいます。ほぼ僕の趣味のようなものになっています。お父様はどうだったのですか?
寺田:父は小学生の頃はこっそり見にきていたようなのですが、それ以降は来ていないですね。日本選手権は今年、初めて見にきてくれました。両親は私が小学生の頃に離婚していて、父とは離れて暮らしていたのですが、身長がぐんぐん伸びて小学校6年生の時には162cmあったので、いつも新しいスパイクをおねだりしていました(笑)。
不可能を可能にする過程が好き
堂上:クラブチームに入ってから、東京に行けたのでしょうか?
寺田:行けました! 小学校5年生の時に北海道大会で1位になり、全国大会で2位になりました。
堂上:全国で2位! 素晴らしいですね。
寺田:いえ、悔しかったです。だから6年生でもチャレンジして、全国大会に行ったのですが、結果はまた2位でした。中学校でも陸上部に入りましたが、身体の変化を迎える時期でもあったのと、怪我をしてしまいなかなか結果が出せず……。リレーでは北海道代表になれたものの、個人では全国大会に行くことができませんでした。高校の受験勉強に集中するため、陸上はもうやめようと思っていたのですが、たまたまクラブチームの後輩がコーチとの練習に誘ってくれて、そのコーチがいる高校に行くことになったんです。
堂上:悔しかったんですね。その悔しさが、次の挑戦に向かう原動力になっているのかもしれませんね。怪我をしてもうやめようと思った時、続けられた一番の理由は何だったと思いますか?
寺田:後輩やコーチとの出会いが大きかったと思います。二人が「陸上やろう」と、私を引っ張ってくれました。
堂上:運命だったのかもしれないですね。でも誘われた時に、「私はやめようと思っているから」と断ることもできたと思います。それでもやろうと思えたのは、やはり陸上が好きな気持ちがあったのでしょうか。
寺田:そうですね、やっぱり楽しかったんですよね。それに負けず嫌いなんです。小学生の頃から、体格の大きい年上の子や男の子にも負けたくないという気持ちは大きかったと思います。
堂上:負けず嫌いは、オリンピアンになるには大切な要素かもしれませんね。やはり努力ができるからこそ、成功へ導いてくれる。いいお話ですね。そこからハードルと出会ったのはいつですか?
寺田:高校に入る直前に、監督から「ハードル跳んでみろ」と言われました。身長が165cmあって、バネがあってジャンプ力があったので、ハードルもできるかもと思ったのかもしれませんし、父がハードル選手だったということを話していたからかもしれません。やってみたらすぐに跳べたので、「4月からはハードルやるぞ」と言われました。
堂上:監督が才能を見抜いたのも凄いですね。陸上部の自分自身と向き合うストイックさが凄いなと思っていましたが、それも楽しめていたんですか? 僕は、サッカーなどチームスポーツにはまっていたところがあったので、陸上のように自分と向き合うスポーツになかなか馴染めない。すぐにさぼりたくなりそうな気がして……。
寺田:もともと“なぜなぜちゃん”だったんですよね。ストイックというか、自分ができないことを見つけて、なぜこれができないんだろうと考えるのが好きなんです。
幼少期から模倣が得意で、指導者からこういう動きをしろと言われるとすぐにできていたので、ずっと感覚的にやっていたのですが、大人になるとこういう理論だからこう動くのか、と理解するようになりました。できないことをできるようにするという過程が好きなのだと思います。
東京オリンピックの決定と、出会いで拓いた新たな挑戦
堂上:ハードルと出会ってからは、どのような道のりを歩まれたのでしょうか。
寺田:高校では3年間インターハイで優勝し、卒業後は日本陸上競技選手権大会で3連覇、2009年にベルリンで開催された世界陸上競技選手権大会に出場しました。
堂上:高校生でハードルを始めて、すぐにインターハイで優勝されたのですか!? それってすごくないですか?
寺田:そうですね、初めてのインターハイは、ハードルを始めて3試合目だと思います。
堂上:凄い! やっぱりジャンプ力というか、バネがあったからですね。このバネは、遺伝などご両親の影響もあったのでしょうか。
寺田:幼少期からさまざまなスポーツをやらせてもらって、身体の使い方を理解していたというのはあるかもしれません。動作に対する引き出しがたくさんあったというか。動きを見た時に、こういう動きの組み合わせをすればできるな、と感覚的に分かっていたので、小さい頃から積み上げてきた経験値もあったのだと思います。
堂上:もう何もかもが上手く行く流れが来ているように感じます。さすがにこれは才能という形でどんどんオリンピアンに進むように感じました。世界陸上に出場後も順調に進んでいたのですか?
寺田:20歳までは順調だったのですが、21歳頃から調子が悪くなり、上手く結果が出なくなりました。疲労骨折もありましたし、摂食障害にもなって、月経も止まって。
23歳で陸上競技からの引退を決断して上京し、結婚と、夢だった大学進学をしました。でもやめた2013年に、東京オリンピックの開催が決まったんです。それで、子どもと一緒にオリンピックを見たいという夫婦の夢ができて、出産することに。子どもを育てながら大学に通いました。
堂上:そうですか。そんなに簡単にはいかないのですね。とはいえ、その切り替えがまた素晴らしいですね。「子どもといっしょにオリンピックを見る」っていう夢のために、出産をする行動がかっこいいです。
とはいえ、その時はオリンピックを見る側のつもりだったわけですね。そこからなぜ競技に戻ることになったのでしょう?
寺田:2016年リオ・デ・ジャネイロオリンピックが終わってすぐに、7人制ラグビーにお声がけいただいたんです。じつは陸上競技をやめる時にもお声がけをいただいていたのですが、もう一度声をかけていただき、アスリートをやめてから「オリンピックを目指そうと言ってもらえる人間は限られているのだな」と実感していたので、2度も言ってもらえるならチャレンジしたいと思いました。
堂上:そんなことってあるんですね? 東京オリンピックに出るために、ラグビーへ? すごいです。それまでラグビーの経験はあったのですか?
寺田:ないです。ルールを分からないまま試合に出て、とにかく走ってタックルされるなと言われて(笑)。初めてタックルされた時は、出産後で痩せていたこともあって吹き飛んでしまって、衝撃を受けました。そこからラグビー協会によるトライアウトに合格して、日本代表練習生として活動していたのですが、足の骨折で一度離脱してしまって。戻ったら代表チームに全くついていけず、このままではオリンピック出場は難しいかもしれないと思いました。
堂上:ここでまた挫折があった。挑戦したからこそ、いくつかの試練もあったのですね。そして、その時にはもう東京オリンピックは見るものから出るための目標に変わっていたので、また新たな挑戦に進むわけですね。
寺田:陸上競技でオリンピックに出られなかった、というモヤモヤは残っていたのだと思います。これからどうするべきか考えた時、ラグビーを通してやっぱり走ることが楽しいなと思えている自分に気づきました。陸上競技引退後、子どもたちに陸上を教える機会もありましたが、自分が嫌いになってしまったものを教えなきゃいけないというジレンマもあって。もう一度陸上に向き合って好きになりたい、陸上競技に戻ろうと決断しました。
堂上:もし骨折をしていなかったら、ラグビー選手としてインタビューしていたかもしれないですね。でも怪我をきっかけに、もう一度陸上競技に戻れたのですね。
寺田:陸上競技から一度離れたからこそ、陸上の楽しさが身に染みて分かるようになったのだと思います。また、陸上をやめてからさまざまな出会いがあったことも大きかったです。北海道にいた時、陸上がなくなったら私の世界はもうどこにもないと思っていました。でも外の世界を知ることができて、私の世界は陸上だけではないし、自分で新しい世界を開拓することもできるし、助けてくれる人もどこかにいると知りました。
堂上:怪我やいろいろな挑戦を通して、経験の積み重ねがあったからこそ、少し俯瞰して陸上と向き合えるようになったのですね。
寺田:はい。家族という味方もできて、子どもにオリンピックを見せたいというモチベーションも生まれました。もし上手くいかなくても、オリンピックを目指す過程で見せられるものがあるかもしれないと思えましたね。
堂上:きっと想像もつかない多大なる努力があったでしょうし、気持ちの切り替えもお上手なのだと思います。
娘との会話が地上波に!? 涙と笑顔、家族の応援
堂上:お子さんは今おいくつですか?
寺田:10歳の娘がいます。小学校4年生です。
堂上:僕の息子、末っ子と近いですね。スポーツはやられていますか?
寺田:いろいろやっているのですが、最近陸上をやりたいと言い始めて、困ったなぁと思っています(笑)。運動会でリレーの選手になりたいから教えて、と言われて学校のグラウンドで教えたのですが、陸上教室モードで教えたら「ママの言うやり方はやりにくい」と言われてしまって。やっぱり親が教えるのは良くないですね。大人数の陸上教室では真面目にやってくれるのですが、1対1だとやっぱり難しくて。親子でやられている方々は本当に凄いと思います。
堂上:お母さんに甘えたくなってしまいますよね。僕も息子がサッカーを教えてほしいと言うので一時期練習に付き合っていたのですが、やっぱり親と子の一対一でコーチングって難しいものだなと実感しています。ついつい、自分のやっていた競技だと、あそこはダメ、ここはこうしたほうが良い、と言いたくなったりします。
お嬢さんは、東京オリンピックを見た時は何て言っていましたか?
寺田:無観客だったため国立競技場には来られなかったのですが、夫と娘は競技場真横のレンタルスペースで、関係者と一緒に応援してくれました。そこにテレビ取材が入っていて、準決勝を終えて夫が号泣している横で、「ママは決勝には行けなかったけど頑張ったと思います」と答えてくれたみたいです。
堂上:凄い! しっかり者のお嬢様ですね。また、僕も娘の新体操の発表会ですぐに泣いてしまうので、旦那様が泣くお気持ちもわかります。
寺田:予選を走った後にテレビ電話で娘に繋いでいただいて、まさか会話が全て放送されるとは思わず、娘に「東京オリンピック限定のリカちゃん人形を買って帰りたかったけれど売り切れてしまった」と話をしたんです。そうしたら後日、タカラトミーさんからリカちゃん人形をプレゼントしていただきました。
堂上:オリンピアンならではのエピソードですね!
陸上と良い距離感を保てるように
堂上:今は毎日トレーニングされているのですか?
寺田:年齢を重ねてからは、オフシーズンを設けるようにしています。以前は全く休むことができなかったのですが、それだと身体が持たないですし、精神的疲労も出てきます。競技の他にも子育てや別の仕事もあります。競技は真剣にやるけれども、ほかのことも大事にしようと、バランスを取れるようになりました。これも一度競技を離れたからこそ、そういったメンタルになったのだと思います。
堂上:良い距離感を取れるようになったのですね。最後に、明日香さんはどのような瞬間にウェルビーイングを感じられますか? また、ウェルビーイングでいるためには「習慣」が大切なキーワードでもあります。アスリートの方がどんなことを習慣化しているかもお聞きしてみたいです。
寺田:もう10年近く習慣化しているのですが、朝起きたら基礎体温を測っています。起き上がったらカーテンを開けて朝日を浴びる。そのあと、娘が捕まえてきたニホンアマガエルのライトをつけて「おはよ~!」と挨拶して1日がスタートしますね。セルフケアは、スマホアプリで睡眠管理をしたり一人の時に治療器を使ったりして、自分自身を整えています!
堂上:やっぱり睡眠は大切なんですね! 『Wellulu』の読者や経営者も、睡眠に関しては特に意識している人が多いです。
寺田:そうですね。あとはいろいろな地域に行って、陸上教室で子どもたちに陸上を教えることが私のウェルビーイングですね。講演会をやることもあるのですが、資料作りが大変で嫌だなぁと言いつつ、それも楽しんでいます(笑)。
堂上:ウェルビーイングな人と対談させていただくと、さまざまなことを何でも楽しんでいる人が多いです。今後チャレンジしてみたいこと、やってみたいことはありますか。
寺田:今は東京に住んでいるのですが、生まれ故郷の北海道との2拠点生活をしたいですね。北海道の、寒い日のピンと張り詰めた空気を吸いたくなるんです。2週間に1回くらいは北海道にいられるようになったら嬉しい!
堂上:2拠点生活が実現したら、ぜひ北海道に取材に行かせてください! 今日お話をしていて、明日香さんはつらい経験もエネルギーに変えて、ポジティブなパワーで周りも明るくしている方なんだと感じました。楽しい時間をありがとうございました!
小学校4年生から陸上競技を始め、全国小学生陸上100mで2位。高校1年生から本格的に100mハードルを始め、全国高校総体(インターハイ)で3連覇、3年時には100m・4×100mリレーで3冠を達成。社会人1年目に初めて出場した日本選手権で同種目史上最年少で優勝すると、以降3連覇を果たした。
2009年には世界陸上ベルリン大会に出場、アジア選手権では銀メダルを獲得、同年の世界ジュニアランキング1位の13秒05を記録。2010年にはアジア陸上競技選手権大会で5位に入賞したが、相次ぐケガ・摂食障害等から2013年に現役を引退。
結婚・大学進学・出産を経て、2016年夏に7人制ラグビーに競技転向する形で現役復帰し、2017年1月からは日本代表練習生として活動した。
2018年12月にラグビー選手としての引退と陸上競技への復帰を表明。2019年9月に12秒97の日本新記録を樹立し、10年ぶりに世界陸上に出場した。
2021年には12秒96→12秒87と自身の持つ日本記録を2度更新すると、日本選手権では全種目を通じて大会史上最長ブランクとなる11年ぶりの優勝を果たし、自身初の五輪となる東京オリンピックに出場。日本人では同種目21年ぶりとなる準決勝進出を果たした。
2023年には自己記録を更新し、日本歴代2位の12秒86をマーク。日本選手権でも優勝し、世界陸上に出場。
2021年末には(株)Brighter Hurdler、(一社)A-STARTを設立し、パリオリンピックを目指して現役を続行する傍ら、教室や食を通じ次代の育成に取り組んでいる。