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「私なんて」からの脱却。誰かのために動く力が、エンパワーメントになる

仕事も人生も“自分で選ぶ”ことの連続。自分の可能性を信じて努力し、進みたい道を切り拓いていく。自分で選んだ道だからこそ、後悔のない生き方ができる。

今回のゲストは、そんなウェルビーイングな生き方を体現されている元ポーラ社長・及川美紀さん。新卒でポーラに入社し、約30年間キャリアを重ねて社長に就任。ダイバーシティ推進や女性の活躍を牽引し、多くの働く女性たちが憧れるリーダーとなり希望を与えてきた存在だ。

2025年に同社を退任後、「ジョブレスなフリーター」として自分らしく人生を謳歌している及川さん。今回は、女性が一生働ける仕事に就くことを夢見て努力し続けた学生時代の話から、キャリア形成の転機となったエピソード、ウェルビーイングな組織作りのコツまで、多岐にわたるエピソードをWellulu編集長の堂上研が話を伺った。

 

及川 美紀さん

一般社団法人ダイアローグ・ジャパン・ソサエティ理事

東京女子大学文理学部卒。1991年株式会社ポーラ化粧品本舗(現株式会社ポーラ)入社。2009年商品企画部長。12年に執行役員、14年に取締役就任。商品企画、マーケティング、営業などを経験し、20年より24年同社代表取締役社長・24年末退任。 2021年よりダイアローグ・ジャパン・ソサエティの理事に就任。東京・竹芝にあるインクルーシブソーシャルエンターテイメント対話の森ミュージアムの運営をサポート。

堂上 研

株式会社ECOTONE 代表取締役社長/Wellulu 編集長

1999年に博報堂へ入社後、新規事業開発におけるビジネスデザインディレクターや経団連タスクフォース委員、Better Co-Beingプロジェクトファウンダーなどを歴任。2023年、Wellulu立ち上げに伴い編集長に就任。2024年10月、株式会社ECOTONEを立ち上げる。

https://ecotone.co.jp/

父親が脱サラ。東北の田舎暮らしで培った生き抜く力

堂上:及川さんは、Welluluにもゲストに来ていただいたエール代表の篠田真貴子さんWill Labの小安美和さんからもお話を伺っていて、ぜひゆっくりお話したいと思っていたんです。

現在は「ジョブレス」という篠田さんがネーミングされた「職なし期間」を過ごされているそうですね。SNSを拝見していると、乗馬や歌舞伎を楽しまれていたり、北海道にいたかと思えば大阪万博に行かれていたり……。羨ましいくらい満喫されていますね。今日はそのパワフルさの原点、どんな幼少期を経て今のパワフルな及川さんがあるのか、ぜひ聞かせてください!

及川:幼少期からだなんて、話し始めたら長いですよ〜! 覚悟してくださいね(笑)。

私は生まれは宮城県石巻市なのですが、父の仕事の関係で幼少期は埼玉県で暮らしていました。そんなある日、小学2年生の終わりに、父が突然「会社を辞めてきた」と言って脱サラしたことをきっかけに、父の故郷・宮城県に引っ越したんです。

堂上:えっ、いきなりの脱サラですか? お父様、すごい決断ですね……!

及川:そうなんです。祖父母の家に転がり込むようにして引っ越しました。当時は、埼玉から来たのに「東京から来たみきちゃん」なんて呼ばれて、チヤホヤされてたりもして(笑)。妹と弟がいるのですが、彼らはまだ小さかったですし、広々とした家で環境が良くなって楽しそうだったけど、私は埼玉の友達と別れるのがつらくて、毎日泣いていました。思い返せば、それが人生最初の“転機”でしたね。

堂上:じつは僕の父も脱サラしてまして。大阪から東京に出てきたとき、僕、エセ東京弁しゃべっていました(笑)。仲間に入りたくて、標準語や方言を幼いながらも頑張るんですよね。

及川:そうそう。私も東北の方言を必死に覚えて、仲間に入りたい一心でエセ方言を使っていました。

父は最初、串カツ屋をやろうと思っていたらしいのですが、祖父母に反対されて、ツテのあった有田焼だけを扱う商社のようなことを始めたんです。住宅街のど真ん中にある器屋さん。「これ、本当に売れるのかな?」って、子どもながらに心配でした(笑)。

でもそんな父の姿を見て、「商売」や「働くこと」は、自然と自分の人生において切り離せないテーマになっていったように思います。

堂上:お父様の“直感力”と“行動力”は、及川さんに通じている気がします。

及川:父は人生の辛酸をなめてきた人でしたが、いつだって私を全肯定してくれました。「大学に行きたい」と言えば、家計が苦しくても行かせてくれた。弟が柔道の事故で入退院を繰り返したり、祖父が亡くなってさらに家計が苦しくなったり……本当にさまざまな困難が重なっていました。

背中を押してくれた家族と、自ら切り拓いた人生

堂上:「生きるとは何か」を身をもって教えてくれたんですね。自分の状況がどうであれ、子どものことは全肯定する姿勢が素敵ですね。

及川:当時、地方では特に「女は大学なんか行かずに台所にいろ」という空気が強い時代でした。でも、父は「大学に行ってもいいけど、奨学金は必須、寮生活をすること」という条件付きで許してくれました。私は必死に条件をクリアする大学をリストアップし、いくらお金がかかるのかをリサーチしました。そうして過ごしていると、「みきちゃんは大学に行きたいから稼ごうとしている」と気づいた周囲の大人たちが、バイトを紹介してくれたんです。応援してくれたこと、すごく覚えています。

堂上:その頃からすでに「応援される力」を持っていたんですね。

及川:両親が実直だったからかもしれません。私は小さい頃から、「だれかの役に立ちたい」という気持ちが強くて。学級代表といったリーダーになったことはなかったけど、雑用係が大好きでした。人の役に立てることが単純に嬉しかったんです。男子に、「ちゃんとやってよ~!」なんて言いながら、雑用をこなすのが得意技でした。“賢い委員長の手下その1”、みたいな感じです(笑)。どんなことでも楽しんでやる。

堂上:そのエピソード、『トム・ソーヤーの冒険』のペンキ塗りを思い出しました。罰のはずなのに、楽しんでいたら周りも巻き込まれていくという。

及川:巻き込み力はあるほうだと思います。

大学も、東京の知人宅に泊めてもらって受験に挑み、無事合格しました。「大学に行かないと稼げない」という危機感があったんですよね。当時、身近にいるロールモデルといえば、子どもを産んでも働いている看護師や先生でした。でも私は数学が苦手で、看護師は無理。だから「先生って60歳過ぎても働ける! すごい!」と思って、英語が苦手なのに英文科に進んだんです(笑)。

堂上:えっ、教師を目指されていたんですね!

及川:はい。とにかく「稼げる人になりたい」という想いが強くて、大学時代は風呂なしアパートで、バイトをしながら妹と暮らしていました。

堂上:生きる力を感じます。ご両親も、及川さんの意思を尊重されていたんですね。

及川:そうですね。おおらかな両親でした。条件はつけられたけど、結果的に「やりたいようにやっていいよ」と背中を押してくれていました。

「自己選択で道を切り拓く」。私の人生って、それに尽きる気がするんです。

私、じつは『赤毛のアン』がバイブルなんです。アンって、想像力と前向きさでどんな日常も輝かせる力を持っているじゃないですか。私も、そういうふうに日々を生きていたいと思っていて。

堂上:なるほど……! すごく腑に落ちました。確かに、及川さんと赤毛のアンは、重なるものがありますね。

「この人の役に立ちたい」と思うと、自然と身体が動く

堂上:なぜそこから教員にならなかったのですか?

及川:その後、就活の時にある先輩から「高校の先生になりたいなら、まず社会人を経験してみてからにしたら?」とアドバイスされたんです。「高校生って、もう半分大人だから授業を教えるだけじゃなく、将来の道も一緒に考えられるほうが絶対いい」と。その言葉をくださった先輩が、本当に素敵な方で……。

堂上:素晴らしい出会いですね。

及川:ただ、いざ企業を見ると、「自宅生限定」みたいな不文律がまだあって。地方女子の就活は厳しいという現実が、すごく悔しかったんです。「私は40歳まで奨学金を返し続けなきゃいけないのに!」、「国にも、市にも、投資してもらっているのに、なぜ私の社会参加は認められないのか」って。

堂上:返済もあるし、そこでまた及川さんの“本気”に火がついたわけですね!

及川:はい。そんな中、化粧品業界は地方女子にも門戸が開かれていました。ポーラを訪問したとき、単身赴任で働く女性の課長に出逢ったんです。すごくかっこよくて、当時から「女性がいきいき働いている会社だな」という印象がありましたね。借り上げ社宅も準備してもらえるとのことで、人事部に「絶対ここで働きたいです!」と手紙を書きました。

堂上:手紙まで! そこまで熱意があると、会社も「会ってみたい」となりますよね。

及川:入社当時は、バブルの余韻残る1991年。地方出身の同期もたくさんいましたが、最近までみんな辞めずに働いていましたね。「商売は飽きたら終わり。お客様がいなくなったらイチからやり直し」という世界ですから、厳しい部分もありました。でも、結婚や出産を経ても働き続けるのが当たり前の空気があったし、全国で女性が楽しそうに働いていましたよ。

堂上:厳しいけど、どこか楽しそうな雰囲気が伝わってきますね。

及川:じつは私、社内結婚だったのですが……あるとき、夫ではなく私のほうに子会社への出向命令が出たんです。正直「私は本社にいなくていい人間なんだ」と落ち込みました。でも、出向先の社長が「及川さんでよかったよ」って言ってくださって救われましたね。埼玉の販売会社だったのですが、すごく喜んでもらえて。

出向時期と出産のタイミングが重なったのですが、すぐに働きたかったので、自ら選択して産前6週間産後8週間の法廷休暇しか取らなかったんです。人手が足りなくて、「赤ちゃん連れてでいいからちょっと来て」と呼ばれたことも。研修中に母乳がスーツに滲み出ちゃうなんてこともありました(笑)。それは大変だったけど、今となってはいい思い出です。

そのとき、ある部長に言われたんです。「僕にできないことを、君はやってくれている」って。現場での自分なりの貢献があるんだって思えた瞬間でした。

堂上:その言葉はまさに“自分の存在意義”を支えてくれますよね。

及川:「鶏口牛後」って言葉がありますよね。少し規模が小さいところでも、自分が役に立てるなら、そっちのほうがいい。高校の先生にもそう言われたことがあって、それが今でも心に残っています。

ぶつかり、気づき、育てられて。「人を思う」組織とは?

堂上:いやあ、壮絶ですね……! でも、及川さんがエネルギッシュに働かれている姿が目に浮かびます。ウェルビーイングの観点からも、組織内でなんでも言い合える関係性ってすごく大切なんですよね。チームづくりに関してはどうやって構築されてきたのですか?

及川:それがね、若い頃の私は“とがって”いたから、ぶつかることはたくさんあったんです。ある販売店のオーナーには嫌われて、私と話したくないからって2カ月も電話に出てもらえなかったことがありました。

堂上:えっ! 2カ月もですか……!

及川:埒があかないので「明日の朝、行きますから!」と言って会いに行ったんです。そうしたら、なんと朝食を用意して待っててくださっていて。「あなたは数字のことしか頭にない」とまず怒られました。「今月の数字を聞く前に、“お疲れさま”とか“困ってることはない?”とか、まずはそういう言葉があるべきでしょ」と。ショックでしたね……「私たちのこと、数字を出す道具としか思ってないんでしょ?」って。

堂上:うわあ……でも、ご飯を用意して待っていてくれるあたり、オーナーさんの“情”を感じますね。

及川:本当にそうなんです。そのとき、毎日の仕事に追われて、気づいたら“数字しか見ない亡者”になっていたことに気づきました。お客様と直接向き合うのは現場の方々。その最前線をケアするのが私の仕事だったのに……。オーナーは私を叱った後、温かく接してくれました。今でも忘れられないありがたいエピソードです。

堂上:その経験が、チーム作りの根っこになっているわけですね。

及川:「相手の思いや考えをまず聞くこと」、「気になる行動があったら先延ばしにせず、きちんと話す時間をつくること」。チームを構築する上で大切なことを、体当たりで教えてもらいました。その後も何度も頭を打たれながら、今の私があります。

元来働き者なので、「この人の役に立ちたい」と思うと自然と体が動くんですよ。ただ、それができるのは、周りのみんなが支えてくれるからこそ。本当に、現場の方々やお客様に育ててもらいました。

堂上:人生のステージや役職が変わっても、及川さんの「人の役に立ちたい」という軸は変わらなかったのですね。

及川:目の前の人たちを幸せにしたいという気持ちはずっと変わりません。社長になっても、やっていることは「雑用係」の延長ですよ。誰かが困っていたら助ける、現場が混乱していたら駆けつける。そうやって動いていると、「あ、この人なら任せても大丈夫かも」と思ってもらえるのかもしれません。

幸せに働くことは、幸せに生きることとイコール

堂上:ウェルビーイングを実践するうえで、及川さんが大切にされてきたことはありますか?

及川:私が社長に就任したのは2020年。まさにコロナ禍の真っ只中だったのですが、リモートワークの選択を個人に委ねるなど、従業員の「自己決定権」を尊重しました。

これはたんなる働き方改革ではなく、一人ひとりの可能性を信じる姿勢でした。例えば、感染が怖い人は自宅でどうすれば生産性が高まるかを考えて行動してほしい、自分の最適解を選んでほしいという想いからです。

堂上:幸せとは何かを研究する「ポーラ幸せ研究所」が設立されたのも、コロナ禍ですよね?

及川:そうなんです。「幸せに働くこと」と「幸せに生きること」って、同義語だと思うんです。だから、「もっとみんな、幸せに暮らそうよ!」という想いで、研究所を設立しました。

ポーラの企業理念である「美と健康を願う人々及び社会の永続的幸福を実現する」の“幸福”をきちんと定義できているのだろうかと問い直し、「本当の幸せとは何か?」を研究するために作りました。ポーラが社会にとって意義のある会社であってほしいですし、何より美容というものが、男女問わず「元気が出るためのもの」であってほしいと願います。

堂上:及川さんが教師になりたいと思っていた夢も、違う形で実現されているんですね。

及川:はい。結果的に、たくさんのポーラレディを教育することができましたし、「女性が一生働ける仕事に就きたい」という夢も叶いました。私の幸福度はとっても高いんですよ。

「私なんて」を、誰も言わない社会をつくりたい

堂上:及川さんのお話を伺っていて、働くことが「生きる」ことに直結しているということをより実感しました。現在は「ジョブレス」期間だと思いますが、これからの未来について、どう考えていらっしゃいますか?

及川:私の人生のテーマは「エンパワーメント」。好奇心を原動力にしながら、様々な分野で“だれかの役に立つ”ことを追求しています。誰かの役に立つことが、私の最大の喜びですから。

理想で言えば、「私なんて……」という言葉をみんなが言わない社会をつくっていきたいんです。学歴がない、地方出身、大企業じゃない──「私なんて」という考えは、あらゆるチャンスを逃してしまいます。「私なんて撲滅委員会」の活動は、この先も続けていきますよ。

堂上:それはぜひWelluluとしてもご一緒したいです! 最後に、若い世代や、人生の分岐点にいる人たちへ伝えたいことはありますか?

及川:「絶対にこれがやりたい!」ということがなくても、大丈夫。目の前のことに一生懸命取り組んでいるうちに、だんだん見えてくるものがありますから。

それに、迷ってもいいんですよ。人は迷いながら育っていくものです。そしてもうひとつ、「相談する」ことを恐れないでほしいです。私自身、たくさんの人に助けられてきました。「誰かに話す」ことで、道が拓けることって本当にあるんですよ。

堂上:まさに、及川さんご自身の生き方がそれを証明してくれていますね。今日は本当にありがとうございました!

堂上編集後記:

及川さんとの対談、念願かなって最高の時間を頂いた。僕らが目指す理想的な生き方、まさに、ウェルビーイングと言えば、及川さんという感じだろう。

及川さんの生涯は、その物語は、ドラマを観ているようであり、応援したくなるような、不思議な感じもたらしてくれた。NHKの朝ドラの主人公のような物語を紡いでこられた人生を共有いただいた。

人は、「生きる」ということに、どれだけ楽しむことができるだろうか?

人は、「行動する」ということに、どれだけ臆病にならずに動き続けることができるだろうか?

人は、「素直に謝る」ということに、どれだけ対話の機会を作ることができるだろうか?
及川さんの生涯は、これからの第二章に向かって、どんなワクワクする未来を創っていくのだろうか?

あらゆる人を巻き込み、自分と見つめ合い、そして社会を変えていく。そんな及川さんに惚れてしまう時間を過ごさせていただいた。

素敵な時間をどうもありがとうございました。

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