勝敗の「あわい」に揺れる。
僕らは、受験戦争という言葉と共に、常に「競争社会」で生きている。先日、息子の中学受験の話を書いたが、合格・不合格という形で勝敗が生まれる。今やっているミラノ・コルティナ オリンピックも、メダルがとれるか、とれないかで大きな勝敗が分かれる。今回、自民党が圧勝した選挙でも当選と落選がある。僕たちが生きるこの社会が、切っても切り離せない「競争」の上に成り立っているというのは事実である。けれども、この「勝った」とか「負けた」というのは何なんだろう?
僕は、スポーツの中でも、高校生のスポーツが好きだ。高校サッカーも、甲子園も、春高バレーも、観戦しているうちに「一生懸命」な姿に感動がある。トーナメント戦の中で、勝てるのは1チームだけで、あとのチームは負けることになる。受験とか、スポーツとか、選挙とか、全部いっしょにしてしまうのは無茶がある気がするが、勝敗が分かれることで、その後の人生にも大きな影響を与えるという意味では同じだ。オリンピックが終わって帰国した人たちが、空港で「メダリストはこちら、メダルをとれなかった人はこちら。」と取材対応席に案内される人と、そのままスルーされるというのを聞いたことがある。誰かが笑い、誰かが泣く。勝者が称賛を浴び、敗者が静かに舞台を去る。僕たちは幼い頃からこの仕組みの中に身を置き、「勝ちたい」「優位に立ちたい」という本能に突き動かされ、あるいは突き動かされることを強いられて生きている。
社会人においても、「勝ち組」と「負け組」という言葉がある。これなんて、誰が「勝ち組」を定義したのか? 出世したら、勝ち組? 給料をたくさんもらったら勝ち組? なんか、この辺もモヤモヤする。そもそも、人間にはなぜ「勝ちたい」という欲求があるのだろうか。 生物学的な視点で見れば、生存競争に勝ち抜き、より良い環境を確保しようとする本能があるのだろう。マウントという言葉もあるのだから、他者と比較して自分が優位にあると感じることで、自尊心を保とうとしているのかもしれない。現代における「勝ち負け」は、生存のための手段を超えて、それ自体が「目的」になってしまっているように感じる。受験に合格することがゴール。いい就職することがゴール。お金持ちになることがゴール。出世することがゴール。そうではないことは、みんな分かっているはずなのに。。。
僕らは、何を人生のゴールにしていくのか? 息子と中学受験前の朝散歩をしていたときに、「過程を重視すること」と「結果を重視すること」の二律背反の意見に対して、あなたはどう思うか? という投げかけをした。息子からは、「僕はやっぱり、過程が大切だと思う」と返ってきた。過程がなければ、結果はついてこないし、結果は、そのときの運もある。戦略的にも、技術的にも優れていても、結果がでないときもある。大谷選手は、努力の天才だという。努力できない人に、結果はついてこないのは分かる。過程の中には、努力できるかできないかが大きく影響する。そうすると、「勝てば、成功。負ければ、失敗。」ではなく、「勝っても、負けても、努力できたら、自分に打ち勝ったら、その過程においては成功」なのかもしれない。
今朝、オリンピックの舞台でスキージャンプの高梨選手が団体で銅メダルを勝ち取ったシーンをテレビで見ていた。応援するチーム・国が勝利するのは嬉しい。そして、4年前の北京オリンピックでの悔し涙と、彼女のSNSの謝罪文があった後だけに、団体で勝ち取ったメダルに感動した。彼女はインタビューで、感謝の気持ちをなんどもなんども伝えていた。それは、家族やずっと陰で支えてくださった方、仲間などすべての人たちへの素直な気持ちだろう。苦境を味わったからこその感謝である。僕は、涙腺がゆるんでいるおっさんになったのか、頑張っている人を見ただけで涙がすぐに流れる。高梨選手のインタビューと伊藤選手とのハグのシーンで、僕の涙腺は崩壊する。勝ったか、負けたか、もちろん大事である。けれども、自分の意志と努力があって、結果につながるから、人は共感するし、感動するのだろう。
自分が応援している人が勝てば喜ぶし、負ければ悲しむ。息子のサッカーの試合なんて、いつもそんな感じだ。今回、息子は運よく希望の中学校の「桜」が咲いた。彼の最後の頑張りが結果につながったのは、親として嬉しい。日本がオリンピックでメダルをとれればうれしい。努力して、挑戦して、勝てばうれしいものである。

ウェルビーイングは、勝ち組のモノ?
ウェルビーイングは何か?いろいろな人に聞かれることが増えた。ある日のWelluluの取材で、「ウェルビーイングって勝ち組の人の話ですよね?」と聴かれたことがある。そんな風に思ったことはなかったし、「誰もがウェルビーイングになれる環境はつくれるはず」だと信じていただけに、この問いは、僕の中で少しモヤモヤが残った。ウェルビーイングは、「意志をもって行動した人」が、「運を運ぶ」ことにつながっているから、結果「勝っている人」のように見えているのではないか、と思った。つまり、ウェルビーイングな人は、「人生の勝者」のようにうつっているのかもしれない。しかも、どんなことにおいてもポジティブに捉えるので、勝ち組のように見えているのかもしれない。
僕らWellulu編集部で「ウェルビーイング」を探究する上で、「比較記事を書かない」という方針を決めた。それは、広告会社出身の僕がつくったメディアだから、というのもある。各々の良いところ(ウェルビーイングな状態や人)にフォーカスすることで、多様な人たちを受け入れることができないか、と思ったのである。漫才とかでもあるが、誰かを落として、自分を上げることや、自分を落として、他者を上げる、というのは分かりやすい。比較するから、勝った、負けたとなり、自分自身と向き合うことを放棄するような気もしていたから、比較をしないと決めたのである。そう、勝ち負けや、上下は、比較するから起こってしまうのである。まずは、自分自身が、自分と対話することからはじめるのが良いと思っている。
僕らは、ウェルビーイングな人とたくさんあってきた。これは、いろいろな統計データを組み合わせて分かってきたことだが、ウェルビーイングな人の傾向が分かってきた。
①ウェルビーイングな人は、たくさんの緩やかな居場所(コミュニティ)を持っている
②ウェルビーイングな人は、移動距離が多く、たくさんの出逢いがある(セレンディピティ・計画的偶発性理論)
③ウェルビーイングな人は、何歳になっても「はじめてをはじめる」ことを楽しんでいる
④ウェルビーイングな人は、感謝の気持ちを忘れない(ギバー・利他)
⑤ウェルビーイングな人は、自分を大切にして、時間の余白を持っている(休養や睡眠を大切にしている)
⑥ウェルビーイングな人は、何かを創り出している(イノベーション)
⑦ウェルビーイングな人は、挑戦を恐れていない(運を自分で運んでくる)
僕たちが目指すものは、「勝つこと」でも「負けないこと」でもないのかもしれない。 それは、「自分自身を愛し、自分と向き合い、行動する」人をひとりでも増やすことなのだろう。努力するのも、そのうちのひとつ。結果につながらなかったとしても、挑戦して失敗して、悔しい想いをするのと、挑戦せずに失敗して、悔しい想いをするのであれば、どちらが成長するか、と聴かれたら、前者と言うだろう。自分自身の人生の「主導権を握っている状態」「自分がご機嫌な状態」をどうつくるか、それは「意志」であり「行動」するか否かである。また、自分の行動が、「誰かを喜ばせること」に価値があるのではないだろうか?
今、受験の結果に、仕事の成果に、選挙の結果に、あるいは誰かとの比較に、悔しい気持ちを持っている方々は、まずは「行動」してみることから始めてほしい。その悔しさや、やり切れなさは、ひとり一人が真剣に生きた証拠。 勝ち負けは確かに存在しますが、それは自身の人生という長い物語の、ほんの数ページ、あるいは一行に過ぎない。そう想うと、また挑戦できることが喜びになる気がする。
勝った人は、おめでとう。周りに支えられていたことに感謝してください。
負けた人は、次に挑戦できる切符を手に入れた。頑張ったあなたに、おめでとう。
人生の勝ち負けは、どれだけ「ウェルビーイングな自分をつくれるか」だと思う。
堂上 研 株式会社ECOTONE代表取締役社長 Wellulu編集長
株式会社ECOTONE代表取締役社長
ウェルビーイングメディアWellulu編集長
情報経営イノベーション専門職(iU)大学教授
日本イノベーション協会 理事
私生活では、3人の子供の父。趣味は、スポーツとアート。