
経済的に自立し、かつ早期退職することを意味する「FIRE(Financial Independence, Retire Early)」。定年まで働くことが当たり前でなくなった今、「若いうちに稼ぎ、老後は悠々自適に暮らしたい」と考えている人も少なくはないはずだ。
今回お話を伺ったのは、23歳のときに地元徳島県で出版社を立ち上げ、46歳で事業を売却し、いわゆる「FIRE」を実現させた住友達也さん。しかし住友さんは、54歳のときに再びゼロから移動スーパー事業「とくし丸」を立ち上げることとなった。
次々と新しいことに取り組む住友さんのモチベーションとは? 67歳となった今、どんなことを想い、どんな活動に挑戦しているのか。自身も学生のときに事業を立ち上げ、経営者として活躍している難波遥氏が話を伺った。

住友 達也さん
株式会社とくし丸 取締役ファウンダー・新規事業担当

難波 遥さん
株式会社Hands UP 代表取締役
一般社団法人with AI 研究所 代表理事
静岡県出身。大学2年時のフィリピン留学での体験がきっかけとなり、SDGsの認知活動を目指した学生団体「Hands UP」を立ち上げる。2021年12月、活動を持続するために法人化。株式会社Hands UPの代表として学生起業家となる。現在は、個の幸せと可能性の最大化をビジョンに掲げ、Z世代の学生CREWと共に、環境問題や人権問題など地球に存在する課題の解決にAIを活用して取り組む。高校時代には「七種競技」でインターハイ出場経験あり。2022年には出身地の菊川応援大使も務めている。
兄の死と留学を経験し「自分の気持ち」を大切にするように
難波:今日は住友さんが取り組まれている事業のお話からプライベートなお話まで、ざっくばらんに伺えたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
住友:よろしくお願いいたします。
難波:まずは住友さんの幼少のお話からお伺いしたいのですが、小さい頃はどんなお子さんだったんですか?
住友:自分の意見をはっきり言う子どもでした。「国語や算数を勉強する意味はわかるけど、音楽なんて将来役に立たないでしょ!」と、学校の先生と喧嘩した覚えがあります。大人になるにつれて音楽が好きになって、今でも趣味でバンドをやっているというオチがあるのですが……(笑)。
難波:なるほど(笑)。ちなみに、ご兄弟はいらっしゃいますか?
住友:兄と妹がいるのですが、兄は僕が18歳のときに海での事故で亡くなりました。当時僕は夏休みを使ってアメリカに短期留学に行っていたのですが、帰国してから聞いて……。魂が抜けたと思うくらいものすごくショックを受けたと同時に、「人はいつ死を迎えるのかわからないのだから、好きに生きてやろう」と確信を持ったような気がしますね。
難波:今のご活動にも、お若い頃に経験したお兄様の死というものが、何かしらの影響を与えている部分があるということですね。
住友:そうですね。いつ亡くなっても後悔しないような選択をすること。世間体やお金、地位や名誉ではなく、いかに自分の素直な気持ちに従って動けるかということを、意識するようになりました。それに、僕自身、4年前にくも膜下出血で倒れたんです。自分自身が生と死の間を彷徨って奇跡的に回復したことも、「好きに生きる」を加速させた出来事でした。
難波:過酷なご経験をされたからこそ得られたものも大きかったのですね。18歳でアメリカから帰国されたあとは、どんなふうに過ごしたのでしょうか。
住友:高専を卒業してからはまたアメリカに渡り、ロサンゼルスで1年間過ごしました。向こうにいたときは、現地の子に「イエローモンキー」なんて呼ばれたこともありました。
難波:黄色人種に対するいわゆる差別みたいなものですか? 私の友達も海外に留学しているのですが、最初の頃は英語が話せなかったこともあり”空気のような存在”として扱われていたと言っていました。
住友:はい。でも、僕は差別を受けたのはいい体験だったと思いますよ。人は誰でも「差別する側」にも「差別される側」にもなり得るからこそ、差別や区別がどれだけ意味がないかを実感できたんです。だから僕は、自分の価値観はできるだけ他者には押し付けたくないし、押し付けられたくもない。生まれや身長のようにどうすることもできない部分は認めたうえで、「別の部分で勝ってやろう!」というモチベーションにもつながりましたしね。
難波:素晴らしいですね。私だったらその世界のなかで、「私はそういう人間なんだ」とどこかで諦めてしまう気がします……。
「お金と時間だけでは幸せにはなれない」FIRE後に抱いた違和感
難波:住友さんは、23歳から46歳まで出版社を経営されていたとお伺いしました。その経緯を教えていただいてもよろしいでしょうか。
住友:最初のきっかけは、アメリカでの体験記を書いて地元の新聞社に送ったことです。それがすごく楽しくて、本格的に雑誌編集をやるために23歳でアメリカから帰ってきたあと、地元の徳島県で『あわわ』という出版社を立ち上げました。徳島県の情報を発信する月刊のタウン誌を3冊刊行していたのですが、当時これがものすごくヒットしまして。最終的には自社ビルを保有して借金ゼロ、経常利益も常に10%以上で毎年社員旅行で海外に行けるような会社になりました。
難波:すごいですね! そこまで成長させたとなると会社に対する愛や情もあったと思うのですが、なぜ手放すという決断をしたのですか?
住友:編集がしたくて事業を始めたはずなのに、会社が大きくなるにつれて経営に集中しなければいけない状況になりました。それと同時に、当時社会活動もおこなっていたんですよ。徳島の一級河川に可動堰(かどうぜき)を作ろうとした行政を、住民投票で止めたという事例を作ったのですが、そのときに社会のしがらみやダークな力をすごく感じまして。そういったものに疲れ、「遊んで暮らしてやる!」と会社を手放し、実際に46歳から54歳までの8年間は本当に遊んで暮らしました。
難波:以前、「50歳までには仕事を辞める」とおっしゃっているインタビュー記事を拝見しました。有言実行ですね。8年間はどんな遊びをされていたのですか?
住友:海外旅行をしたり、英会話やスイミングを習ったり、バンドを始めたり……。とにかくいそがしかった頃にできなかったことをやろうという気持ちでした。でも「楽に楽しみなく、楽しみに楽なし」という言葉があるように、いまいち充実感がなかったんです。もちろん楽しくはあったのですが、「楽しい」の質が違うというか……。心から湧き上がる喜びを得るためには、負荷がかかることが必要なのだと思いました。
難波:苦楽があるからこそ、幸せを手に入れることができる……。まさにウェルビーイングに通ずる考え方ですね。
住友:会社を経営していた頃は10分単位でやることが決まっていたので、常に頭が回転していました。でも、いざ引退してお金も時間も自由に使って良いとなると、脳が溶けていく実感があって……。一生遊んで暮らそうと本気で思っていたのに(笑)。そんなときに「買い物難民」という存在に出会い、「とくし丸」という移動スーパーの事業をスタートさせました。
現場に出てこそ聴こえてくる「声」を大切にしたい
難波:「とくし丸」創業の経緯について詳しくお聞かせください。
住友:当時80歳を超えた母が、「車を運転して買い物に行って、荷物を積み下ろしするのが大変だ」と言っていたのを耳にしたことがきっかけです。詳しく聞いてみると、母の周りにも同じような状況の高齢者がたくさんいました。
当時も移動スーパーという業態自体はありましたが、一気に全国展開できるようなフォーマットを作っている企業はありませんでした。これからどんどん高齢社会化することを考えると、確実に需要があると思い「移動スーパー事業」を始めることにしたんです。
それに、移動スーパーという業態なら、ドライバーは個人事業主の方に依頼できるし、スーパーも既存の店舗と連携すれば良い。本部は10人くらいで、全員の顔がわかるミニマムな組織でも成り立つのではないかという仮説がありました。大きな組織の経営をしたいわけではない僕にとっても、ぴったりだったんです。
難波:なるほど。競合のなかに飛び込むのではなく、いわゆるブルーオーシャンのなかで勝負に出たわけですね。「三方良し」というとくし丸のサービスにも通ずるものを感じます。事業を立ち上げるときに、特に意識したことはありますか?
住友:商道徳を守ること、でしょうか。あらゆる事業には功罪があります。その地域に住む人の数が一気に増えることがない限り、とくし丸が成功すればするほど、どこかの商店やスーパーの売上が減ることになる。だから、昔から地域にあるような商店の周辺300m、つまり高齢者でも歩いて行ける距離にある商店の近くでは運営しないことを決めました。他にも、本部だけが利益を独り占めせず、ドライバーさんや連携スーパーのみんなでしっかりシェアできる仕組みは大事にしましたね。
難波:素敵です。住友さんのこれまでのご経験からくる、できるだけ争わないようにという価値観や生き方そのものですね。
住友:やっぱり、関わってくれるすべてのみなさんが「とくし丸があって良かった」と心から思ってもらえるような事業でないと、この先10年、20年と続いていかないと思うんです。利益はあくまでも、「ありがとう」という言葉とともにいただけるお布施のようなもの。綺麗事かもしれませんが、金儲けしすぎても幸せにはなれないなと思います。
難波:「金儲けしすぎても幸せにならない」。実際に事業を成功させ、一度手放したことがある住友さんだからこそ立てる境地ですね。
住友:実際、8年間遊んでドロドロになっていた脳が、とくし丸を始めた瞬間に生き返った感覚がありました。
難波:住友さんにとっては脳が回転し続けている瞬間こそがウェルビーイングだったわけですね。
住友:もちろん大変なこともありましたよ。54歳で創業してから3年間はほとんど無給でしたし、自らハンドルを握ってお客様のもとを走り回っていると、「住友さん何やってるんですか!」と言われることもありました。でも、やっぱり現場に出てみないとわからないこともたくさんあるんですよね。
難波:実はご縁があり、以前、とくし丸のスタッフの方に「買い物難民が多い地域はどうやって探しているんですか?」と聞いてみたら、「社員が実際に訪問してヒアリングしているんです」とおっしゃっていて、びっくりしました。住友さんの「現場を大切にする」という精神は、会社全体にも受け継がれているんですね。
住友:本当に必要な情報は、どうしても隠れてしまいます。例えば片道30分かけて歩いて買い物に行っているおじいちゃんおばあちゃんがいても、その方にとってそれは日常だから、そもそも「困っている」と思っていないんです。
実は以前、社会活動の一貫で住民投票の署名を集めるために色々なお宅を訪問しているとき、ある全盲の方に「署名したかったんだけど、どこでどうやって署名したら良いのかわからなかったから、来てくれて本当にありがとう」と涙を流しながら言われたことがありました。こういう経験もあり、やっぱり現場でしか作れない接点もあるなと実感したんです。
だから、とくし丸でも僕たちが実際に訪問して現状をヒアリングすることでニーズを把握するようにしています。これはとくし丸が軌道に乗ったひとつの大きなポイントだと思います。
『ぐ〜す〜』創刊。大好きな雑誌編集の仕事で笑顔を作る
難波:住友さんがスタートされたとくし丸ですが、2016年にオイシックス・ラ・大地株式会社にM&Aという形で事業譲渡をしたのを皮切りに台数がグンと伸び、47都道府県での展開も実現させました。素晴らしいバトンのつなぎ方だと感銘を受けました。
住友:ありがとうございます。20年、30年続く事業にしていくためには、若い世代の力も必ず必要になってきます。オイシックスの髙島社長の「事業を通して社会を良くしたい」という意思にも感銘を受け、後は任せることにしました。
難波:未練などはありませんでしたか?
住友:ありませんでしたね。僕は、誰もやっていなかったことを「そんなものは事業になるはずない」と言われながらも実現させて、「ね、できたでしょ」ってドヤ顔をするのが好きなんです(笑)。
それに、今は『ぐ〜す〜月刊とくし丸』という、とくし丸を利用してくださっているユーザー層向けの雑誌の出版が僕のやりがいになっています。
難波:もともとお好きだった雑誌の編集というお仕事に戻られたわけですね。
住友:はい。やっぱり雑誌編集の仕事は大好きですね。2023年に立ち上げたばかりのまだまだ発展途上の事業なんですが、ついこの前も90歳のおばあちゃんから「これまで私は早く命が終われば楽になれると思っていたけれど、『ぐ〜す〜』に出会ってからもう少し頑張りたいと思うようになりました」というお手紙をいただきました。
難波:素敵……!
住友:本当、編集者冥利に尽きますよね。僕はこういう方のために仕事をしているんだと、プライスレスの喜びを感じました。この雑誌を始めたきっかけも、おじいちゃんやおばあちゃんを主役にする媒体を作りたいというものでしたから。
難波:実際に見てみると、読者のページが多いんですね。
住友:それもこだわりのひとつです。読者の方が送ってくださった川柳を紹介したり、「おばあちゃんのレシピ」を紹介したりしています。自分の顔や言葉が雑誌に載るのはやっぱり嬉しいみたいで、見て一瞬でわかるくらい顔が輝くんです。先日は、自分が掲載された号を10冊買って、家族や友だちに配っていたおばあちゃんもいました。そういう話を聞くたび、本当に嬉しく思います。
難波:まさに読者のウェルビーイングを作っていますね。おじいちゃんおばあちゃん世代が何を考えているかってどうしてもわからない部分があるので、それを知れるのも嬉しいです。『ぐ〜す〜』は、高齢者層と若者をつなぐ媒体だと感じました。デジタルが普及している現代において、コミュニケーションツールとして雑誌が機能することも必要なことですよね。
住友:ありがとうございます。ウェルビーイングに生きるうえでは、人生の先輩方とのつながりも大切だと思います。
難波:主体性が求められている社会だからこそ、人生の先輩方の考え方や、価値観を知りたいという若者もいる気がしますね。
住友:はい。それに、今後高齢者が増える社会のなかで、さまざまな課題も表面化してくると思うんです。そういったことも含めて、『ぐ〜す〜』を通して世の中に情報発信ができたら嬉しいなと思います。
難波:寄り添ってくれる雑誌だからこそ、「これまで言えなかった悩みを打ち明けてみようかな」という読者の方もきっと現れると思います。私たち現役世代だけでは発見できない課題にもアプローチできる可能性を含んでいるということですよね。
70歳で本気のリタイア。引退後は世界中を旅行したい
難波:とくし丸の創業者である住友さんですが、今後、会社を通じてどんな社会をつくっていきたいですか?
住友:買い物難民の数を考えると、全国には3,000〜4,000台の移動スーパーが必要ですが、現状は1,000台を突破したばかりで、まだまだ需要に追いつけていません。実際、毎日のように「うちの地域にも来てもらえないか」という問い合わせをいただいています。だからこそ、もっとスピード感を持って、いかに早くサービスを広げられるかが課題になると思います。
ただ、「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉もあります。移動スーパーの本来の目的は、食品をはじめとする生活必需品をお届けすることですが、それ以外にも、生きがいや楽しみを一緒に届けるといった、付加価値を重視していきたいです。
難波:それがまさに『ぐ〜す〜』なのですね。住友さん個人としての、今後の目標や夢はありますか?
住友:今67歳なので、あと3年、70歳までには『ぐ〜す〜』を世の中で大ブレイクさせるのが1番の目標です。その後は、とくし丸のように若い世代に譲って、体が元気なうちに今度こそ本気のリタイアをしたいなと思っています。自分の視野を広げるためにも、世界中を旅したいですね。
それから、社会活動として国民投票条例や住民投票条例を常設型で制定させたいと思っています。今の間接民主主義の代議員制では、どうしても国民や住民の声が届きにくいという実情があります。間接民主主義を補完するためには、国民や住民が直接投票できる仕組みが必要だと思っているので、実現させたいです。
難波:住友さんにとっての幸せな状態は、組織にとらわれない自由な状態で自分の好きなことをしたり、新しい出会いを見つけたりという一面と、社会の本質的な課題を見つけて解決するという2軸があるように感じます。
住友:そうかもしれません。やっぱり、儲けることを目的にしてしまうと、本当の幸せは手に入れられない気がしますね。
難波:本当にそうですよね。住友さんとお話ししていると生きることへのパワーを感じられますし、勇気が出てきます。ご自身が現場に出て地道な作業をおこなうという努力も、起業家として尊敬しますし、忘れてはいけないことだとあらためて感じました。本日は貴重なお話、本当にありがとうございました!
徳島県生まれ。国立阿南工業高等専門学校機械工学科を卒業後、約1年間のアメリカ生活を経て、23歳のときに徳島県でタウン情報誌『あわわ』を創刊。1984年、株式会社あわわを設立し、代表取締役に就任。「50歳までにリタイアする」という宣言通り、2003年、46歳で退任。
2012年、買い物難民問題の深刻さを実感し、株式会社とくし丸を創業。2016年5月、野菜宅配業を営むオイシックス(現・オイシックス・ラ・大地)に事業譲渡し、現在はとくし丸のユーザー層をターゲットにした『ぐ〜す〜月刊とくし丸』の刊行に従事している。